2017年5月3日水曜日

●水曜日の一句〔古田嘉彦〕関悦史


関悦史









三角部屋を寒いと言うのは誰か  古田嘉彦


「言った」ではなく「言う」なので、いま現在「寒い」と言う者は同室しているらしい。いや、ひょっとしたらこれから「言う」という未来の事象なのかもしれず、その場合、誰かが「寒いと言う」ことは、まだ起こっていないにもかかわらず確定していることのようなのだが、いずれと取っても奇異な閉塞感が漂う。

原因の一つは言うまでもなく「三角部屋」という奇態な空間であり、しかもそこは寒いらしいということだが、さらに奇妙なのは、そこに誰が誰か互いにわからなくなる程の人数が一緒にいるらしいことである。彼らの関係や、なぜそこにいるのかといった事情は一切わからない。いや、これにも全員がなかに閉じこもっているわけではなく、戸を開けて入った瞬間に「寒い」という言葉を発したと取れないこともない。

だが一句を読み下してみたときの印象として、彼らはずっと三角部屋に閉じこもっているように思える。寒いならば出てゆくか煖房をかけるかすればいいのだが、ここにはそういう選択肢はない。あるならば誰の発言かを詮索している間に然るべき行動を取るだろう。ここには行動の自由はない。さらに、厳密には、発言者が誰かを本当に詮索しているのかどうかも怪しい。この「寒いと言うのは誰か」はそんなことを言ってはならないという禁圧とも取れる。

心象を象徴的に詠んだ句というのが、一応の理解の仕方となるだろうが、「三角部屋」自体にイメージ・シンボル事典の類に載ることができそうな、積み重ねられてきた象徴の歴史といったものがあるとも思えない。ここにあるのは、或る偏波さ、尖鋭さを帯びつつ建築の隅に追いやられた部屋の形象と、そのなかで黙っていつまでとも知れぬ時間をおのおの耐え続ける複数の人たちという状況だけである。この遭難者の群れのような人影に、「三角部屋」という空間が具体性を与える。「三角部屋」から解放された時、彼ら自身もまた雲散霧消してしまうのかもしれない。ここでは拘束、膠着こそが存在に基盤を与えているのである。


句集『展翅板』(2017.3 邑書林)所収。

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