2017年6月20日火曜日

〔ためしがき〕 uninstall.exe 福田若之

〔ためしがき〕
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福田若之


世のなかには、さまざまなイデオロギーがある。資本主義、民主主義、社会主義、共産主義、植民地主義、無政府主義、全体主義、テロリズム、形式主義、写実主義、象徴主義、構造主義、ポスト構造主義、モダニズム、ポストモダニズム、構造主義、経験主義、イスラム原理主義、キリスト教原理主義、マルクス主義、フロイト主義、人種差別主義、フェミニズム……まだいくらでもあるけれど、もう充分だろう。ときに重なりあい、ときに対立しあいながら働くこうしたイデオロギーは、しばしば、「物語」という言葉を使って語られてきた。

だが、ここでは次のように言ってみよう。イデオロギーはプログラムである。 プログラムという語は、ギリシャ語のπρόγραμμαを語源としている。それは、「公に書かれたもの」を意味していた。これはまた、「前もって書かれたもの」をも意味するだろう。ところで、イデオロギーとは、公的な法として自らが共有されることを要請するものであり、ハードウェアとしての僕たちを何らかの運動へと駆りたてるソフトウェアであり、何かが書かれるときにその前提として働こうとするものであり、出来事の展開をひとつの工程に従わせようとする式次第であるはずだ。だから、こうした意味で、イデオロギーとはプログラムの一種だといえる。

ここで僕は、 そうしたイデオロギーの一切を空き缶のように蹴っ飛ばして、早々にそこからの逃走をくわだててみせたりするつもりはない。そんなことはこれまでにもさんざん繰り返されてきたことなのだし、僕たちは、そんな物語を、もう、前もって繰り返し聞かされてきた。

プログラムはインストールされる。僕たちは、言葉を読みとり、あるいは聞きとるなかで、さまざまなイデオロギーを身のうちにとりこむ。必要なことがあるとすれば、それは逃走ではない。アンインストールの手順を用意することだ。もちろん、それはただちに必要とは限らない。もしかしたら、ハードウェアが壊れるまで使わずにすませることもあるかもしれない。それでも、アンインストールの可能性は、ひとつのプログラムがもはや不要とされるときのために、つねにあらかじめ担保されていなければならない。たとえば、「遺産」という語がなんらかの権威をまとって響くときに、特定のイデオロギーがこの語と結びつくことに問題があるとすれば、それは、このアンインストールの可能性が担保されていないという点にある。「遺産」という語は、それが権威をまとったときには、それを放棄すること自体を悪として意味づけるからだ。

話が逸れた。つねにあらかじめ、用意された手順。そう、アンインストーラもまた、それ自体が一個のプログラムにほかならない。そして、アンインストールの手順を用意するというのは、事実上、アンインストーラをプログラミングすることにほかならない。

アンインストーラを書くうえで注意しなければならないのは、 ひとつのプログラムがもはや不要とされるときというのは、必ずしも、そのプログラムの目的が果たされたときであるとは限らないということだ。僕たちは、インストールしたプログラムを結局は一度も起動させないままアンインストールすることもあるし、起動させてみて駄目だなと思ってプログラムを強制停止させてアンインストールすることもあるし、そうかと思えば、さしあたりこのプログラムが役に立つことはもうないだろうと判断しながらも、なんだかんだアンインストールせずにそのままにしておくこともある。だから、アンインストーラは、そうしたさまざまな場合に対応している必要がある。

ちなみに、アンインストーラのアンインストーラはといえば、際限なくアンインストーラが必要になるという事態を避けるために、通常、そのアンインストーラ自体に内包されている。アンインストーラが機能を果たしたあとで、アンインストーラが残らないのはそのためだ。それは、たとえば、ミシェル・フーコーが「書物そのものは、その効果のうちに、その効果によって消滅すべきなのです」と語ったような仕組みが必要とされるということだろうか。だが、アンインストーラのそうした仕組みについて、僕はまだよく知らない。だから、これはほんのためしがきでしかない。

けれど、ひとはアンインストーラを書くことができる。これまでにも、何度だって書いてきたはずだ。アンインストーラのプログラミングのやり方は、きっと、僕たちにプログラムされているはずだ。仮に、それもまたひとつのイデオロギーとしてでしかないとしても。

2017/6/11

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