2017年8月1日火曜日

〔ためしがき〕 いましか書けないもの 福田若之

〔ためしがき〕
いましか書けないもの

福田若之

「いましか書けないものを」、とよく言われる。誰かが高校生であったり、新婚であったり、長女なり長男なりが生まれたばかりであったりすると、「いましか書けないもの」を書くことが推奨される。

だが、このような意味での「いましか書けないもの」とは、実際のところ、そのときそのひとにしか書けないものではない。それは、こういう意味で「いましか書けないもの」といわれるとき、ひとは、「いま」ということを、「そのひとが高校生であるいま」とか、「そのひとが新婚であるいま」といった特殊性においてしか把握していないからだ。そのせいで、高校生でありさえすればいまでなくてもそのひとでなくても書けるものや、新婚でありさえすればいまでなくてもそのひとでなくても書けるものが、あたかも「いましか書けないもの」であるかのように錯覚されているのである。

だが、いましか書けないものというものがあるとすれば、それは非記号的なかけがえのなさにかかわるものであるはずだ。記号は反復しうるものの反復においてこそ捉えられるものである。記号の本性は反復にある。それに対して、いましか書けないものの本性は反復しえないということにあるのでなければならない。たしかに、いましか書けないものを書くために何らかの記号を使うことがありうるけれども、そのとき、ひとは決してそれを記号のもつ記号としての性質にもとづいて書くわけではない。

「いま」とは時間のなかでのかけがえのなさにかかわる語である。「いま」とどれだけ繰り返したとしても、ひとは、引用をぬきにしては、二度とたったひとつのこのときを指し示すことはできない(《長男叫ぶ「今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!」》(山田露結)において、叫ばれる「今っ!」は差延している)。「いま」という言葉こそが、まさしくいましか書けないものなのである。もちろん、「いま」という言葉を書くだけでなにか価値が生まれるなどといいたいのではない。いましか書けないものは、べつに、それだけでは何の価値もない。そこにあるのは、ただかけがえのなさだけである。だが、このかけがえのなさを忘れてはならない。というのも、書くということは、それ自体が、このかけがえのなさによってはじめて可能になることがらなのである。

2017/7/22

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