2017年11月29日水曜日

●暖房

暖房

暖房機しくしくふうと止まりたる  太田うさぎ〔*〕

暖房の椅子にねむたきぬひぐるみ  西村和子

暖房の明るき間より海を見ん  横光利一

暖房の室外機の上灰皿置く  榮 猿丸


〔*〕週刊俳句編『俳コレ』(2012年1月/邑書林)

2017年11月28日火曜日

〔ためしがき〕 ひきのばし 福田若之

〔ためしがき〕
ひきのばし

福田若之


杉本徹「響きの尾の追跡」(『ふらんす堂通信』154、2017年10月)を読んだ。しばらく前に、「ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko」の「エネルギーのぶつかりあい。」という記事に次のとおり予告されていたものだ。
杉本徹さんの書評は今回も辛口である。
期待される若手俳人のひとり、福田若之句集『自生地』についてである。
この俳人の美質を十分に理解し、評価しながらも、批評の目はするどい。
詩人であるゆえに見えてくるもの、「俳句性とはなにか」。

前回の田島健一句集『ただならぬぽ』評についてもそうであるが、わたしはまず著者自身にこの「批評」を読んで欲しいって思っている。


(田島さん、読んだ?)

感想(反論?)聞かせて欲しいな。。。。←(yamaokaの心の声)
考えるところはあるし、それを書きたいとも思う。聞かせるのではなく、書きたいと思う。けれど、今日のためしがきをそのことに充てることはできそうにない。いまは時間が足りない。とはいえ、いまは足りない時間とはなんだろう? その猶予のために、僕はこのひきのばしを書いているのではないかという気はしている。
2017/11/28

2017年11月27日月曜日

●月曜日の一句〔福田若之〕相子智恵



相子智恵






雪がふるがふるがふると靴めりこみ  福田若之

句集『自生地』(東京四季出版 2017.08)所収

面白くて美しい句。

「雪がふる」で文字通りの光景を読者に見せながら、「雪がふるがふる」で「雪がふるということが、ふる」とメタな視点が表れ、入れ子状になっていく。

それが「雪がふるがふるがふる」までいくと、もう「ふるがふるがふる」は独り歩きして、雪が降り続いては降り積もるオノマトペのように感じられてくる。

そして最後に置かれた〈靴めりこみ〉でまた景が浮かぶのだが、「雪がふる」が解体し、雪がふるという言葉となって降り積もって、だけど靴が雪にめり込んだ時の音や冷たさの記憶はよみがえってきて、言葉が光景に再結晶していく俳句の詩的な過程の面白さを、一句の中でコマ送りのように味わった。

『自生地』という句集自体が、句集を編集していく過程を私小説のようにして見せていく句文集というコンセプチュアルな1冊で、構造が面白い。

掲句を始め、繰り返し出てくる「小岱シオン」や「かまきり」と「かまきりもどき」などのモチーフによって、例えば「歳時記」は、その見た目からデノテーションなものと思いがちだけれど、コノテーションの塊なのだということを再認識して、私は目が(頭が?)洗われた思いがした。

2017年11月24日金曜日

●金曜日の川柳〔小野範子〕樋口由紀子



樋口由紀子






鬼のカクランと言われ鬼かなと思う

小野範子

「鬼のカクラン」とはいつも極めて壮健な人が病気になることだが、大概は「カクラン」の方に注目する。それほどひどい症状である。しかし、掲句は「カクラン」よりも「鬼」の方に、私は「鬼」だったのかと、ひっかかってみせる。へえ~そっちの方と読み手を誘導し、「鬼」のイメージを一気に印象づける。

価値体系の横にあるものにこだわることをあからさまに出して、意表を突く。言葉尻をとって、おもしろがる。しょうもないことのなかになにかあるのだとちらっと思わせる。それらは川柳のひとつの立ち姿だと思う。このとぼけたユーモア感には俳諧性がある。「川柳研究」(226号昭和43年)収録。

2017年11月23日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将







山の姿蚤が茶臼の覆ひかな 芭蕉

『蕉翁全伝』所収。

談林の全盛期は延宝時代(1673〜1681)と言われている。これと芭蕉の年表を重ね合わせると、直前の寛文十二年に俳諧発句合『貝おほひ』を上野天満宮に奉納してから、江戸に下っている。延宝3年に初めて「桃青」の号を使う。掲句は延宝4年の句。

茶臼は、茶の葉をひいて抹茶とするのに使う石臼のことである。上部が円柱形で下部が台の形になっているので山に似ている。富士の形はその茶臼に覆いをかぶせた様に見立てたことはたやすく確定できるが、問題は「蚤」である。「蚤が茶臼」とは、「蚤が茶臼を背負うことで、不可能で分不相応の望みを持つ」という意味の諺。当時の俗謡に「蚤が茶臼を背たら負うて、背たら負うて、富士のお山をちょいと越えた」とあるものを踏まえたものでもある。背負っている蚤までを芭蕉は見せたかったのか、それとも諺や謡曲を踏まえているということだけを念頭に置いてほしかったのか。

富士の山蚤が茶臼の覆かな

また、『銭龍賦』(1705、高野百里編)には、このように記されている。内容はそれほど変わらないが、「山の姿」で字余りにするのと「富士の山」でおさめるのとでは富士の迫り方が違ってくるように思われる。

2017年11月21日火曜日

〔ためしがき〕 「ありとあらゆらない」のこと 福田若之

〔ためしがき〕
「ありとあらゆらない」のこと

福田若之


『自生地』(東京四季出版、2017年)に、次の句がある。

ひきがえるありとあらゆらない君だ 福田若之

「ありとあらゆらない」 は、もちろん、今日では連体詞として扱われる「あらゆる」の強調された連語「ありとあらゆる」を、あたかもラ行五段活用の動詞であるかのように活用して、助動詞「ない」とつなげたものだ。

もちろん、今日、一般的には「あらゆる」はそもそも用言として扱われることはない。だから、これは文法に対するあからさまな違反なのだが、もうひとつ、書いておきたいことがある。

そもそも、今日、連体詞として扱われる「あらゆる」は連語だった。それはラ行変格活用の動詞「あり」の未然形と助動詞「ゆ」の連体形の組み合わせだったのである。「あらゆるもの」が「ありうるすべてのもの」という意味になるのは、「ゆ」の可能をあらわす用法による。

「ゆ」は上代の助動詞で、平安時代にはすでに一般的ではなくなっていた。たとえば、「見ゆ」、「聞こゆ」などはその名残りで、もともと「聞かゆ」だったのが変化して一語になったものだそうだ。

いま、「見ゆ」、「聞こゆ」という例をあげたが、これらの動詞は、いずれもヤ行下二段活用だ。そして、このことは助動詞「ゆ」の活用に由来している。助動詞「ゆ」の活用形は下二段型だったのだ。したがって、語源に即して考えるならば、「ありとあらゆる」にあえて「ない」をつけるなら、「ありとあらえない」になるはずだということになる。

しかし、僕の身についた言葉で書くなら、ここはどうしたって「ありとあらゆらない」となるところだ。「ありとあらえない」なんて、まったく笑えない。そんなふうにしたら、変なものでも食べてしまったみたいな気分になるだろう。それは、ひとえにいわゆる「現代語」の活用として、下二段活用がもはや一般的ではないからかもしれない。「見ゆ」は「見える」に、「聞こゆ」は「聞こえる」になってしまった。「見える」の連体形は「見える」、「聞こえる」の連体形は「聞こえる」であって、それは「あらゆる」とはかたちが違っている。 

あえて説明するならこんなところだろうか。

けれど、ひとつ大事なことを付け足しておくなら、文法というのは、そのつど、生きた言葉を前にした驚きにもとづく、その後付けの説明として成立するもののはずだ。

たとえば、「ゆ」には可能の用法がある、とか、その活用形は下二段型だ、とか、「ゆる」は「ゆ」の連体形だ、などというもろもろの説明は、そう書いた僕自身を少なからず苛立たせる。

言葉はたんにひとつながりにそのつどそう書かれたにすぎないのであって、「ゆ」がそれとして生の言葉だったころには、「可能の用法」などという概念も、「活用形」だの「下二段型」だの「連体形」だのという概念も、それどころか、「助動詞」という概念すら、なかったはずだ。これらの概念は、まさしく文法学こそが自らのために発明したものではなかっただろうか。「ゆ」は、これらの概念がなくとも、おのずからそのような言葉として苔むしていたのだ。一般化としての文法は、言葉のこの苔むしてある感じをどうしてもいくらか捉えそこねる。そこには、それをこそ捉えようとする努力によって決定的にそれが捉えそこねられるといった不幸がある。優れた文法学者たちはもちろんそのことをよく承知しているし、ときには繰り返し、この点に注意をうながしている。

思うに、言葉の苔むしてある感じに関わる文法なき文法は、決して美しいものではない。それは「美しい日本語」なる想像物の建立に与するあの一般化としての文法ではない。文法なき文法あるいは文法以前の文法、それは僕たちにとってはむしろ崇高なものだ。それについて語る言葉を、僕はまだ充分に手にしてはいないし、おそらく決して満足なものを手に入れることはないだろう。ただそれでも、僕は、文法学の発明せざるをえなかったもろもろの言葉を前にしたときの自分自身に対する苛立ちを、そうやすやすとなかったことにするわけにもいかない。というのも、僕が母語で書くとき、そこに期待する文法とは、ただ、この文法なき文法なのだから。
2017/11/21

2017年11月20日月曜日

●月曜日の一句〔櫂未知子〕相子智恵



相子智恵






息白し形見に近き一樹あり  櫂 未知子

句集『カムイ』(ふらんす堂 2017.06)所収

亡き人との思い出のこもった一本の樹。

故人の庭木などではなく、形見分けにもらうことはできない。しかし、その樹の元での思い出の深さは、限りなく〈形見に近き〉ものだというのだ。

母との死別があったというあとがきから見るに、この樹は母との思い出が詰まった樹だと思われる。裏山や、道や、公園、この一樹がどこにあるのかは分からないが、〈形見に近き〉からは深々とした、そしてあくまでも静かな母恋いの思いが感じられてきて胸に迫った。

寒空の下で一本の樹を見上げながら、同時に空の方へ立ちのぼってゆく自分の白い息も見えている。

白息の先の、形見に近い一樹の先の、空の先の、母へ。視線がのぼっていくのと同時に、思いも空へとのぼってゆく。目の前の息の白さによって一樹にも靄がかかり、彼の世との境目もなくなっていくようだ。

2017年11月19日日曜日

【新刊】今井聖『言葉となればもう古し 加藤楸邨論』

【新刊】
今井聖『言葉となればもう古し 加藤楸邨論』(2017年11月/朔出版)

2017年11月18日土曜日

【新刊】『子どもおもしろ歳時記』金井真紀:文・イラスト/斉田仁:選句・監修

【新刊】
『子どもおもしろ歳時記』金井真紀:文・イラスト/斉田仁:選句・監修

2017年11月17日金曜日

●金曜日の川柳〔石田都〕樋口由紀子



樋口由紀子






控えには缶詰切りとおろし金

石田都 (いしだ・みやこ) 1936~

道具の便利さにはたびたび驚かされる。あたりまえに使っているが、もし無ければ、たいそう不便で、それまではどうしていたのだろうと思う。「缶詰切り」も「おろし金」もなくてはならないが、「控え」になるとは思わなかった。「控え」が眼目だろう。ユニークで意味深な言葉。「控え」のニュアンスを巧み活用している。

自分の裡にあるものをどうにかしなければならなくなったときための「控え」だろう。中身をオープンにしたり、こだわりを細かくすりおろす。決して、無理も背伸びはしない。当然、「缶詰切り」と「おろし金」の方も承知していて、そのときのために作者のうしろでじっと待機している。

「缶詰切り」と「おろし金」はどちらも食に関わるものであり、目立つものではない。作者の日頃の生活や人柄が垣間見えるような気がする。いや、へそ曲がりなのかもしれない。自分を大きく見せようとするものの対極にあるように思う。ユーモアとウイット感がある。川柳「杜人」(2017年秋号)収録。

2017年11月16日木曜日

●クリーニング店

クリーニング店

厳冬の白きをとどけ洗濯屋  能村登四郎

クリーニング店増える糸瓜の水を取る  上田信治〔*〕

壬生の鉦クリーニング屋励むなり  波多野爽波

〔*〕『里』2017年11月号より。


2017年11月14日火曜日

〔ためしがき〕 形式と自由 福田若之

〔ためしがき〕
形式と自由

福田若之


形式について認識し理解するために、形式という言葉を道徳から取りかえすことが必要だ。形式とは「こうあるべきだ」と命じる無数の掟の束だろうか。そうではない。形式とは、たんに「こうあるのだ」と告げるもののことだ。

「俳句はこうあるべきだ」と告げるのは形式ではない。 それは道徳的な規範でしかない。こうした規範のもとで、俳句は限定される。道徳は、こうした規範に照らして、ひとが「あれは俳句ではない」と言うように仕向ける。「俳句はこうあるべきだ」は否定としてしか働かない。

形式はたんに「この句はこうあるのだ」と告げる。形式は、俳句を限定することなしに、一句一句の区別をもたらす。この句の形式とあの句の形式がともに存在する。ひとの口を借りるまでもなく、形式はそれ自身において一句一句の本性をそのつど限りなく肯定する。

形式は服従とは何のかかわりもない。形式がかかわりをもつのは、個別的なものの本性に由来するものとしての自由である。

2017/11/1

2017年11月12日日曜日

【俳誌拝読】『現代俳句』2017年11月号 西原天気

【俳誌拝読】
『現代俳句』2017年11月号

西原天気


現代俳句協会『現代俳句』2017年11月号に「現代俳句新人賞」受賞作2篇(赤羽根めぐみ「おりてくる」、宮本佳世乃「ぽつねんと」)、佳作2篇(吉川千早「らうたし」、仲田陽子「雨の来る匂い」)が掲載されています。それぞれ1句ずつ紹介します。


味噌汁の味噌の重力秋に入る  赤羽根めぐみ

たしかに味噌が下に降ります。それを「重力」と大仰に言い切った可笑しみ。

「秋に入る」という言い方に、私自身は違和感を覚えないこともない。秋って、「入る」感じがしない。春も夏も同様。なぜか冬だけは「入る」感じがある。私だけの感じ方かもしれず、道理はわかりません。一方、「秋に入る」といういかにも俳句的・季語的な語と前半が相俟ってこそ、飄々とした味わいが出ている気もします。


ふくろふのまんなかに木の虚のある  宮本佳世乃

木々のなかにいるはずの梟。大きさや位置関係の逆転がこの句の主眼。梟を複数に読むと、ふつうの景色になりますが、一羽と読みました。だからこそ起こる逆転。

この「虚」には説得力があります。なんだかありそうじゃないですか、梟の腹のあたりに木の虚が。色合い的にもね。
 
語尾の「ある」はその人の口吻というものでしょう。「あり」ときっぱり終わると、いわゆる「ドヤ感」が出るのを嫌ったのかもしれません。


君の来た星には花があるんだぜ  吉川千早

いっけん地球外からやってきた宇宙人に語りかけたように見えますが、連作「らうたし」は「子」を詠んだ連作、それならば、生まれてきたことを、この星にやってきたと捉えていると読むのが順当でしょう。どちらにしても、ジュヴナイルのような味わい。若々しくスウィート。

この「花」は俳句の約束事=桜ではなく、花一般でしょう。無季ということになりますが、有季でも無季でも、私はどちらでもオッケー。


ゴールデンウィーク集荷の人を待ち  仲田陽子

一般家庭が宅配便を出すとき、どのくらいの頻度で集荷サービスを利用するのか、よくわからないが、商売をしていると、日常的に集荷してもらうことが多いだろう。

一般家庭か仕事場かで、句の印象が異なるが、後者の場合、世間が休んでいるとき、納品なり進行のために集荷を待っている。句としては何気ないが、ある種、気分のしっかりした醸成、時間の質感の提示がある。

集中、《水辺から昏れる一日青ぶどう》といったポエティックな句の一方、掲句や《フラダンス奉納のあと海開き》といった措辞・文彩を排した日常・非日常の句もいくつか。こちらのタイプの句により惹かれた。


現代俳句協会ウェブサイト

2017年11月11日土曜日

●ホテル

ホテル

さくら満つ夜の犬山ホテルかな  大野泰雄〔*1〕

このあたりホテルばかりの白夜かな  久保田万太郎

ホテルみな白しホテルは何充つ城  楠本憲吉

ホテルあり木槿づたひにグリルあり  京極杞陽

ラブホテルある日土筆にかこまるゝ  杉山久子〔*2〕


〔*1〕大野泰雄『へにやり』2017年10月/夜窓社
〔*2〕杉山久子『泉』2015年9月/ふらんす堂

2017年11月9日木曜日

新シリーズ●木曜日の談林〔西山宗因 〕浅沼璞



浅沼璞







里人のわたり候かはしの霜  西山宗因

『懐子』&『境海草』(1660年)所収

談林俳諧といえば宗因流、宗因流といえば謡曲調、謡曲調といえば掲句が発端、というのが通説である。しかし掲句は宗因流の全盛期・延宝年間(1673-81)をさかのぼること十数年の作。ともすれば過渡期の徒花として扱われがちな談林だが、十数年間という揺籃期がちゃんとあったのだ。あなどれない。

さて謡曲調は「謡曲取り」ともいうように、ようは(シャレではありません)謡曲の詞章を原テキストとしたサンプリング。掲句の上五・中七は謡曲「景清」の一節そのままだ。けれど原典では「わたり」=「あり」の尊敬語。それを文字どおり「渡り」とシャレのめし、「渡り」→「橋」と連想を広げたってわけだ。さらにそいつを「橋の霜」という歌語へともっていった。さすが宗因、もともと連歌師なだけはある。しかも御丁寧に「宇治にて」と前書があり、宇治川、宇治橋といった歌枕までシャレのめしてる……なんてことは後で調べたり考えたりしたことで、最初にこの句を目にしたのは芭蕉七部集(岩波文庫版)中の『阿羅野』でだった。「旅」の部立に〈ひとつ脱(ぬい)で後におひぬ衣がへ〉の芭蕉句などと併載されていた。

『阿羅野』は俳諧の古今集をめざしたアンソロジーで、朗詠集的な部立に蕉風以前の連歌や他門の発句もまじってる、くらいの予備知識はあったが、「旅」のパートで蕉門俳諧といっしょ(しかも前書はカット)となれば、どーしても旅人目線で鑑賞したくなる。橋上の霜にのこる足跡を見て地元の民の生活に思いを馳せる旅人のアングルである。旅情と言ってしまえばそれまでだが、漂泊する者が定住民に感じる懐かしみ、みたいなもので、そーなってくるともう(いま読みかえしてみても)謡曲調やら歌語やらの足跡などほとんど見えはしない。

けっきょく『阿羅野』の編集にまんまとヤラれたってことなんだろうな、たぶん。

2017年11月7日火曜日

〔ためしがき〕 『ファイアボール』シリーズと口のない口唇性 福田若之

〔ためしがき〕
『ファイアボール』シリーズと口のない口唇性

福田若之


ウォルト・ディズニー・ジャパン制作、荒川航監督のアニメーション作品、『ファイアボール』シリーズの一作目では、お嬢様であるロボットのドロッセルが、執事のロボット、ゲデヒトニスの名を繰り返し呼びまちがえる。たとえば、第一話では次のとおりだ。
ドロッセル おい、シシカバブー、シシカバブーはどこだ?
ゲデヒトニス はい、お嬢様。
ドロッセル イルカが見たいわ、シシカバブー。
ゲデヒトニス イルカでございますか。ちなみに、私の名前はゲデヒトニスでございます。
ゲデヒトニス イルカよ、シシカバ。
このあとも、話数を重ねるたびに、ゲデヒトニスは、「タンホイザー」(ワーグナーの作曲したオペラの主人公)、「デュラムセモリナ」(小麦粉の一種)、「クセルクセス」(アケメネス朝ペルシアの王の名)、あるいは、「パッキャマラード」(童謡「クラリネットこわしちゃった」の歌詞の一部。なお、もとのフランス語は«Au pas, camarade.»で、意味上の切れ目はむしろ「オーパッ」と「キャマラード」のあいだにある)などと、さまざまに呼ばれることになる。それにしても、こうした脈絡のない誤った名の数々は、いったいどこからくるのだろうか。

ドロッセルは、どうやら故意に違う名で呼んでいるのではなく、ほんとうにゲデヒトニスの名を忘れてしまっているらしい。シリーズ二作目にして一作目の前日譚にあたる『ファイアボールチャーミング』の第七話で、ドロッセルに物忘れ機能が備わっていることが明らかにされている。また、同じく最終回では、眠りにつこうとするドロッセルが、次に目覚めたときにはゲデヒトニスの名を忘れてしまっているかもしれないということを示唆していた。ゲデヒトニスGedächtnisはドイツ語で「記憶」を意味する。シリーズ一作目のドロッセルは、まさしく記憶を失くしているので、その名をうまく呼び出すことができないのだ。

だが、話数を重ねるにつれてはっきりしてくるのだが、彼女はどうやら自らの呼びまちがいを楽しんでいるようでもあるのだ。

ドロッセルはロボットだが、言葉に対して情緒的にふるまうことがある。たとえば、一作目の第七話で、ドロッセルの亡き父、ヴィントシュティレ卿が残した書物に記されていた人類の会話サンプルをもとにしたゲデヒトニスの発話(「チーッス、ドロちゃん」、「ドロってばチョーウケるし、もうアゲアゲ」)に対し、彼女は「微妙にむかっ腹が立ったわ」、さらに「腹に据えかねるわ」といった感想を述べ、「人類との共存は無理ね」と結論付けている。語調は、ドロッセルにとってそれほどまでに重要なことがらであり、ここで彼女はそれに対する感情的な反応を示しているのだ。これは、『ファイアボールチャーミング』の第一話で「気持ちを伝える言葉さえ見つければ、人類とも仲直りできるはず」と語っていたドロッセルの、悲しい帰結である。人類との共存の可能性を否定する彼女は、亡き父の教え――人類の言葉は常に変化しているため、その本来の意味に注目せよ、という趣旨の教え――を、もはや思い出すことはない。

さて、「サンチョ・パンサ」と呼んでおきながらさらにそれを「サンチョパ」と略したり、「タンホイザー」を「ホイサッサ」に言い換えたりしているところからしても、ドロッセルは、人類の言葉にいらだつのとは対照的に、呼びまちがいを楽しんでいることは明らかだ。そして、こうした省略や言い換えからすると、どうやら彼女の楽しみは言葉を発するときのくちびるの動きに関わっているようだ。

言葉は、ゲデヒトニスを呼ぼうとするとき、それ自身が担うはずの記憶とは無縁のものになっている。「ワンダーフォーゲル」という語が、本来の意味とは無関係に、容易に「ワンダフォー」に転化してしまうのはこのためだ。そして、ゲデヒトニスを呼ぶためだけに「マンゴスチン」や「チグリスユーフラテス」といった語彙が召喚され、しかもそれが「ゴッチン」や「チグリッパ」というかたちに省略されるとき、そうした本来の記憶を失った言葉を発することでもたらされる楽しみは、なによりもまず口唇的なものにほかならないはずである。

だが、ドロッセルのような存在がいかにして口唇的な楽しみを感じうるというのか。というのも、彼女には口が、すくなくとも一般的な人類のそれと同じようには存在していないからである。その顔には口腔も唇も見当たらないのだ。彼女は、内蔵されたスピーカーか何かから音声を発しているにすぎないように見える。それはゲデヒトニスについても同様である。

たしかに、ドロッセルは、イルカについて「愛でてよし、食べてよし」と言い、文通相手のユミルテミルを芋煮会に誘おうとし、ゲデヒトニスの言葉を「あなたは口を挟まないで」の一言で制止する。また、ゲデヒトニスはといえば、眼にゴミが入ったときの苦痛について、「喩えるなら、食事中にやにわ咳きこみ、ご飯粒が鼻のほうに入ったとき、鼻のほうから出そうと努力いたしますものの、忘れた頃に出てくるのは、決まって口のほうからでございます」とさえ述べており、しかも、ドロッセルはこの言葉に「分かるわ」と返している。

だが、こうしたことの一切にもかかわらず、やはり、彼女たちには口がないというこの事実に目をつぶるわけにはいかない。シリーズ三作目の『ファイアボールユーモラス』を観てみよう。その第一話では、あたかもこの不在を埋め合わせるかのようにして、笑った口が描かれた紙がドロッセルによってゲデヒトニスの顔にマグネットで取り付けられる。ドロッセルもまた、彼女を図書室まで連れて行ってくれるはずだったロボットのハラヅモリ3000がうまく働かないとわかると、口の代わりに表情をあらわすための絵を顔の下方に貼り付けている。そのとき彼女たちがこうした絵を用いるのは、まさしく口がないからにほかならない。ちなみに、このハラヅモリ3000には口らしきものが見受けられるが、逆に、このロボットのほうは言葉を話すことができず、ただ「ボエー……」という言葉にならない叫びをあげるばかりだ。

面白いことに、このアニメーションにおいては口のないものだけが言葉を発することができ、口のあるものは言葉を発することがないのである(口がないからといって、必ずしも言葉を発することができるとは限らないが)。たとえば、『ファイアボールチャーミング』の第七話に登場する記憶装置のレジナルドも、口なしに発話している。

言葉にかかわるものとして、いわば、口のない口唇性とでもいったものを考える必要があるだろう。なにより、エクリチュールの口唇性とはそうしたものではないだろうか。文字には唇がない。しかし、文字がそれ自体において口唇性と呼びたくなる何かを帯びることはたしかにある。

実際、『ファイアボール』シリーズのロボットたちはどこか文字的な存在なのだ。一作目の第五話には、そのことを端的に示唆するこんなやりとりがある。
ゲデヒトニス 失礼をお許し下さい、お嬢様。私このままでは非常に……頭〔ず〕が高い。
ドロッセル そうね。
ゲデヒトニス その頭〔ず〕の位置の高さたるや、「ざじずぜぞ」が「ずざじぜぞ」になる始末。
ドロッセル 縦書きね。
ゲデヒトニスはここで自らの身体性を縦書きの文字列になぞらえているのである。次の第七話でドロッセルがゲデヒトニスのことを「サンチョ・パンサ」と呼んでいるのは示唆的だ。ドン・キホーテとサンチョ・パンサは、まさしく文字の世界から抜け出て来たかのような二人組である。

ドロッセルには、おそらくは彼女の亡き父によって、停電のときに目が光る機能が授けられていた。彼女自身がいうには、それは「便利」である。ただし、「でも、これではまぶしくて、私には何も見えないわ」。何かを照らしていながら、自分自身では何ひとつ見ることができない。文字とはそうしたものではないだろうか。文字のまなざしは、見るためにではなく、見せるために機能する。

ドロッセルとゲデヒトニスの暮らす屋敷は、ブリューゲルの描いたバベルの塔を思わせる外観をしている。データベースを備え付けているこの屋敷は、それ自体が巨大な書物のようでもある。『ファイアボールユーモラス』の第一話によれば、西の彼方には図書室もあるらしい。要するに、この屋敷はボルヘスのバベルの図書館を思わせるものなのだ。彼女たちは書物に住むもの、一冊の書物としてのバベルの図書館に住むものとして、そのなかにある書物を読むのである。

ドロッセルとゲデヒトニスが触れる書物のなかでいちばん重要なのは、ゲデヒトニスがしばしば大事そうに取り出す『プロスペロ』という名の書物であろう。ドロッセルによってシャーデンフロイデと名付けられた猿型ロボットが、この書物について語ったヴィントシュティレ卿の言葉を記憶していた。

第一作の最終話で再生されたその言葉によれば、『プロスペロ』は「この世界の始まり、はたまたその世界とあの世界、あるいは科学と迷信、そのあいだに横たわる何某、などについて書かれている」という(もっとも、ゲデヒトニスに言わせれば、これは「主にテーブルマナーについて書かれた本」だそうだが)。

シャーデンフロイデもまた口をもたないが、ヴィントシュトレ卿の言葉をそのままに再生する機能を授けられているのである。しかも、その言葉の一部は『プロスペロ』の一節重なり合うものだった。「遠い昔、世界は一つだった。機械とヒトは、同じ言葉を話し、花は歌い、木々は踊り、砂漠は生きていた」。『ファイアボール』シリーズにおいて、ロボットと人類はどこまでも言葉の差異によって隔てられている。その意味で、ドロッセルたちはバベルの塔の崩壊以後のバベルの塔に住まう存在だともいえるのだが、いま重要なのはこの点ではない。

ヴィントシュトレ卿の言葉を一字一句正確に記憶し、『プロスペロ』と重複する役目を担うシャーデンフロイデは、その意味で、書物そのものなのである。ならば、同じように『プロスペロ』に書かれていることを口のない口唇性において読みあげるゲデヒトニスもまた、書物であるといえるのではないだろうか。実際、ドロッセルはゲデヒトニスの読み聞かせによってはじめて『プロスペロ』の本文に接触するのである。

そして、読み聞かせにおけるドロッセルとゲデヒトニスの役回りは容易に入れ替わる。ドロッセルに対してゲデヒトニスが書物であるのと同様に、ゲデヒトニスに対してドロッセルが書物であるということがあるのだ。

たとえば、彼女は、『ファイアボールユーモラス』の第一話において、手にしている書物に記されているらしい、イソップの『アリとキリギリス』とは似て非なるアリとキリギリスの物語をゲデヒトニスに伝えている。「いいこと、アリさんが熱心に働く一年間、キリギリスさんはバイオリンを弾いて歌って暮らしました」、「その結果、キリギリスはどうなったか」、「バイオリンと歌がチョーうまくなりました」、「そのままメジャーレーベルと契約して全米デビュー」。ドロッセルもまたゲデヒトニスに対して書物なのである。

もちろん、彼女たちの口のない口唇性というのは、実際には、18世紀のチェスの自動人形の思考に近しいものだとも言えないことはない。「トルコ人」と呼ばれたその機械には、実は、チェスの名人が見えないように入りこんでいた。同じように、口のないドロッセルの代わりに、声優の川庄美雪が「中の人」として唇を動かしているのだ――こうした見方を否定することはできない。

とはいえ、『ファイアボール』シリーズが、いわばそのフィクションにおいて、口のない口唇性という概念を呼びよせるものであるということもまた、否定しようのないことだろう。それは、文字についての考えにもつながるひとつのアイディアをもたらしてくれているのである。

2017/10/26

2017年11月6日月曜日

●月曜日の一句〔小野あらた〕相子智恵



相子智恵






秋冷やチーズに皮膚のやうなもの  小野あらた

句集『毫』(ふらんす堂 2017.08)所収

ああ、たしかに「皮膚」という感じ、あるなあと思った。私はカマンベールチーズの白黴の膜などを思ったりしたが、人によっていろんなチーズを思い出すことだろう。

この比喩は個性的な把握でありながら、言われてみればそれ以外にないというような必然性があり、いわゆる「発見のある句」とはこういう句のことを言うのかもしれないな、と思う。しかしそれが〈のやうなもの〉とすーっと流すように淡々と一句の中に着地していていて、いわゆる「ドヤ感」がないのがいい。そのさりげなさにふっと笑ってしまう。さりげなさが味わいとして長く心に残り、飽きがこないのだ。

取り合わされた〈秋冷〉も、うまいなあと思う。皮膚がひやっとする感じが内容によく響き合っているし、チーズという寒くなると食べたくなる食材に対する確かな季節感も示し、さらに形のない季語なのでチーズの微細な膜に焦点が定まる。

鑑賞がなんだか理屈っぽい解説になってしまったが、チーズを見るたびに思い出すであろう、大好きな一句となった。

2017年11月5日日曜日

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2017年11月3日金曜日

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