2017年12月18日月曜日

●月曜日の一句〔友岡子郷〕相子智恵



相子智恵






雄ごころは檣(ほばしら)のごと暮れ易し  友岡子郷

句集『海の音』(朔出版 2017.09)所収

〈雄ごころ〉という万葉以来の言葉や〈檣(ほばしら)〉など、言葉の調べが美しく、格調が高い。

勇壮な雄々しい心は、まるで船のマストのようだという。いかにも男性的な象徴性のある中七までの力強さは、しかし冬の日が早々に暮れていく〈暮れ易し〉で、すっと哀愁に変わる。出だしが雄々しいからこそ、〈暮れ易し〉に回収されたときの寂しさが際立つ。

「ごとし」の句というのは観念の句ということになるだろうが、この句は〈檣〉と〈暮れ易し〉によって、冬の海辺の日暮れが脳裏に浮かんできて、「ごとし」の句でありながら風景句として、もの寂しい映像がくっきりと浮かんでくるのがとても美しい。

〈雄ごころ〉からの冬の夕暮れ、その残照。それはまるで老いのもつ透明な静けさや余韻のようでもある。

2017年12月15日金曜日

●金曜日の川柳〔須崎豆秋〕樋口由紀子



樋口由紀子






長靴の中で一ぴき蚊が暮し

須崎豆秋 (すざき・とうしゅう) 1892~1961

一気に寒くなった。こんなに寒いのに先日台所に蚊が一ぴき弱弱しく、けなげに飛んでいた。どうするつもりなのだろうと思った。掲句も長靴に蚊がいるなんて思わなかったのだろう。長靴を履こうと足をいれようとしたら、一ぴきの蚊が飛び出してきた。その驚きが一句になった。「一ぴき」という限定がいい。

「長靴」もいい。蚊がいそうなところを思い浮かべると水たまりとか茂みとかだが、長靴は言われてはじめて、確かに蚊がいそうだと思った。すぐ思い浮かぶ、あたりまえのところだとおもしろくない。かといって、ありえない、とんでもないところだとリアリティがなく、絵空事になってしまう。そのちょうどいいポイントが「長靴」のような気がする。「暮し」もいい。蚊にあたたかいまなざし感じる。モノとの距離の取り方がうまい。

2017年12月12日火曜日

〔ためしがき〕 意味は存在するか 福田若之

〔ためしがき〕
意味は存在するか

福田若之


意味、という名詞を認めることによって、仮にその存在を確かなものだとしてみよう。意味が、ときによって、あるいは、ところによって、あったり、なかったりするのだとしてみよう。すると、非意味は、ドーナツの穴のように、意味にとりまかれながら、場合によってそこに虚ろに現れうる何らかの感じとして理解される(非意味であって、無意味ではない。無意味とはある特別な種類の意味にすぎない)。ドーナツのないところにドーナツの穴などありえない。それはドーナツによって作り出される、ドーナツでない空白のことだ。それと同じく、意味のないところに非意味はありえない。ただし、この場合、意味は、そのありようによっては、非意味を伴わないことがある。あんドーナツには穴がない。

だが、意味する、という動詞のみが許されるのだとしたらどうだろうか。物とは別に意味なるものが存在するなどと信じることをやめてみると、どうだろうか。その場合は、ただ数々の物だけが存在し、意味するということは、それらの物に割り振られた、ある特別な演技にすぎないということになる。この場合は、物は基本的には意味しないのであって、それらの基本的には意味しないものたちによって、意味することの演劇がなりたつことになる。

だから、そもそも、意味という名詞によって考えるか、意味するという動詞によって考えるかによって、世界はがらっと変わってしまう。だが、肝心なのは、どちらかひとつを選ぶことではない。ひとは、意味という名詞によって考えられる世界と、意味するという動詞によって考えられる世界との、どちらをも同時に信じうるような現実を生きている。意味という名詞による考えも、意味するという動詞による考えも、結局はその現実にあてがわれた一面的な見方にすぎないのであって、現実そのものではないということだ。

2017/12/12

2017年12月11日月曜日

●月曜日の一句〔野崎海芋〕相子智恵



相子智恵






ラガー等のたたきあふ肩胸背腹  野崎海芋

句集『浮上』(ふらんす堂 2017.09)所収

ラガー等の喜びを、叩き合う動きと肉体の部位だけで表現した句。

試合に勝った後にチームメイトが叩き合って喜んでいるのか、または相手チームの健闘を讃えての挨拶だろうか。

眼目は下五の〈肩胸背腹〉のなだれ込むような疾走感だ。肩、胸、背、腹という肉体の断片によって、大勢で群がって叩き合っている喜びの瞬間が見えてくる。

肉体の断片の羅列が押し寄せてくるだけで、彼らの汗や体臭、雄叫びはもちろん、ノーサイドの精神といった、ラグビーの本質までイメージされてくる。その独特の「汗臭い爽やかさ」がしかと伝わってくるのである。

2017年12月9日土曜日

【新刊】上田信治句集『リボン』

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上田信治句集『リボン』

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2017年12月8日金曜日

●金曜日の川柳〔菊池良雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






刺身なら今夜は自首をやめておく

菊池良雄

ふと、亡父を思った。仕事から帰って、晩酌するのが楽しみで、そのために働き、生きているようにみえた。夕餉の食卓に刺身がのっていると、殊の外、嬉しそうだった。男の人には珍しいほどの笑顔の似合う人だったので、それは得も言われぬくらいの満面の笑みだった。

父は就きたい職業でなかったので、不本意な仕事だったのだろう。誰に相談することなく、56歳の定年できっぱりと仕事を辞め、小さな事業を始めた。母はずっとそのことを愚痴っていた。晩酌を美味しく飲むために言っておかなければならないことも言わずに先送りしていたのだろう。そして、生涯自首をしないままに、68歳であっけなく逝ってしまった。「ふらすこてん」(第54号 2017年刊)収録。

2017年12月7日木曜日

●木曜日の談林〔井原西鶴〕浅沼璞



浅沼璞







大晦日定めなき世のさだめかな 井原西鶴

『三ケ津哥仙』(1682年)所収

宗因流の後継者といえばなんてったって西鶴。掲句はその代表作である。例によって和歌の無常観や『徒然草』の風俗描写などを下敷きに、当時の都市生活者の大晦日を詠んでる。

近世の町人は現金よりもツケ(掛け)でものを売買してた。「大晦日」はその年間貸借の総決算日だった。貨幣経済がもたらした都市生活の大きな特徴として、貸し借りの信用取引でもって生計をたてる習慣をあげることができる。太っ腹だ。

だから掲句は、〈なんの定めもない無常な浮き世にあって、大晦日だけは年間の貸借を総決算する定めの日である〉って感じ。それを受け、〈無常の浮き世を知る文学者の目と、無情な貨幣経済を認識する都市生活者の目が、ふたつながら活かされたケーザイ俳句〉と以前評したことがある。西鶴は晩年、浮世草子で「大晦日」の町人たちを描き、『世間胸算用』と題して板行。だから「ケーザイ俳句」というのもあながち間違ってはないと今でも思ってる。けど何んか足らない。

いうまでもなく当時の年齢は数え年であった。考えようによっては全員が1月1日をバースデーとするわけで、大晦日はその前日ということになる。めでたい……とばかりもいえない。なんせ人生50年という時代だ。アラフィフは言わずもがな、アラフォーの町人とて無常を感じずにはおれなかったろう。

果たして西鶴も52歳で病没したが、そこは西鶴、辞世の前書で〈人生50年、それさえ自分には十分すぎるのに、さらに2年も長生きしてしまった〉としたためた。太っ腹すぎる。(辞世については、いずれ西鶴忌の時節に)

2017年12月6日水曜日

●うつくし

うつくし

美しやさくらんばうも夜の雨も   波多野爽波

うつくしさ上から下へ秋の雨  上田信治〔*〕

東京の美しき米屋がともだち  阿部完市

美しきことはよきもの松の内  星野立子


〔*〕上田信治句集『リボン』(2017年11月/邑書林)

2017年12月5日火曜日

〔ためしがき〕 書きものをめぐる喩え 福田若之

〔ためしがき〕
書きものをめぐる喩え

福田若之


杉本徹「響きの尾の追跡」(『ふらんす堂通信』154、2017年10月)を読んだ。

この文章における「空気」あるいは「空気感」という言葉のあらわれようは、僕にとって、とても喜ばしいものだ。書きものを流れる風、あるいは、一陣の風としての書きものということを、折にふれて考える。この喩えが、いったい、何を言い留めようとしているのかということを。書きものに風を感じるということそれ自体はたしかなのだが、その喩えで何を言わんとしているのかを僕はうまく説明することができないでいる。ついしばらく前にも、野見山朱鳥の書いた句の群れを前にして、僕はそれを感じたばかりだ。


「響きの尾の追跡」に話を戻そう。この評は、まさしく喩によって、福田若之『自生地』(東京四季出版、2017年)と捉えようとしている。タイトルの「響きの尾の追跡」という言葉については、こう書かれている。

もちろん、一句の自立性を放棄したわけではないし、要所に心ふるえる一句があるのも事実である。しかし、響きの尾の追跡とでも形容しないと取っかかりがつかめないほど、連作風につづく圧倒的な句の数が、この一冊には詰めこまれている。(「響きの尾の追跡」、39頁)
形容すること。それも喩によって形容すること。それが、一冊の本を読むことの取っかかりになる。そのうえで、『自生地』に記された「よしきりの巣」という喩と「結晶する」という喩が並べられる。
雑然とからまりあうスパゲッティは、まるでよしきりの巣を思わせる。僕は、よしきりの巣のような句集を編みたいと思う。それは、僕自身の、あの懐かしい古巣の記憶にも通じるものになるだろう。(『自生地』、190頁)

僕は句集を編むことばかり考えてきたつもりだった。句集を編んでいるつもりだった。けれど、いまやそれを撤回しなければならない。僕は句集を編みたいのではなかった。僕は句集を、結晶させたかったのだ。 (同前、215頁)
「響きの尾の追跡」では、これらふたつの記述に矛盾のようなものを見出す――「「よしきりの巣のような句集」「結晶させたかったのだ」――どっちなんだ? とつっこみたくもなるが、結果をみれば「よしきりの巣」となったことは明白である」(「響きの尾の追跡」、39頁)。『自生地』は「よしきりの巣」だとする読みを、僕は否定するつもりはまったくない。むしろ、僕が多少のもどかしさを感じながら読んだのは、次の一節だった。
この人は五七五の定型を、紙の裏側から息づかせるような、独特の不思議なセンスをもっていると、ふと思う。それゆえ、そうであればなおさら、句集として提示するのだから収載句をもっと絞りこんで一冊を「結晶」させてほしかったと、つくづく感じる。 (同前、40頁)
「五七五の定型を、紙の裏側から息づかせる」、すばらしい喩だ。だから、それだけに、「よしきりの巣」と「結晶する」ということをめぐって、ひとつの可能性が見落とされてしまったことを、僕は残念に思う。それはすなわち、句集が、よしきりの巣のようなものとして、結晶する、という可能性だ。喩としてなら、それは大いにありうることのはずなのだから。 そして、これは、句集を、よしきりの巣のようなものとして、編むこととは、まったく違っている。この認識の生成変化は、『自生地』において、ひとつのターニングポイントになっている。

整理しておこう。『自生地』において、「結晶する」ということに背反しているのは、「編む」ということであって、「よしきりの巣」ということではない(そう僕は読む)。

もちろん、この喩と喩の関係の構築こそが失敗に終わっているということはあるかもしれない。けれど、僕は「響きの尾の追跡」の次の一節を読むとき、それがたとえ失敗であるとしても、単なる失敗ではなかったと思うのだ。
〔……〕この一冊は、ある一定量の句群を一単位として、それらが輻輳し、錯綜し、流れ流れてゆく、トータルで大きな連続体――読み手にはどうしたってそう印象づけられる。(同前、39頁)
流れ流れてゆくものからなるよしきりの巣というものがあるのだとしたら、結晶するよしきりの巣があったって、いいじゃないか。僕はそう思う。

2017/12/5

2017年12月3日日曜日

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2017年12月2日土曜日

【新刊】週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』

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週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』(草思社文庫/2017年12月6日)

2017年12月1日金曜日

●金曜日の川柳〔加藤久子〕樋口由紀子



樋口由紀子






すったもんだのあげくに顔を差し上げる

加藤久子 (かとう・ひさこ) 1939~

「擦った揉んだ」、「擦る」は「物と物が力をこめて触れ合わす」、「揉む」は「両手の間に挟みこする」が合体して、「もつれが起こって争う」「ごたごたもめるさま」になる。とんでもない言葉である。

「すったもんだ」は生きているとどうしても起ってしまい、避けては通れない。それにしても顔を差し上げてしまうなんて、そんな「私」とはなんなのだろうかと思った。「すったもんだ」の事態を自分の身体で対処して、自分を守る。突拍子である。「すったもんだ」と「顔を差し上げる」を同じ俎上にあげているところにアナーキーさを感じる。

もう顔まで差し上げてしまったのだから、私は新たな顔でなにごともなかったように平気な顔で暮らしていく。現実を乗り越え、生きにくい世の中を遣り過していく。人間のふてぶてしさとたくましさ感じる。「MANO」20号(2017年刊)収録。