2017年12月31日日曜日

■2018年 新年詠 大募集

2018年 新年詠 大募集

『週刊俳句』にて新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。
※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2017年11日(月)0:00~15日(金) 24:00

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html

2017年12月30日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】『俳句年鑑2018年度版』をめぐるざわつき 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
『俳句年鑑2018年度版』をめぐるざわつき

西原天気


『俳句年鑑』を読む、ということを、むかし『週刊俳句』でやったことがあります。上田信治との対話形式。

『俳句年鑑2008年版』を読む
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/12/20081.html
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/12/20082.html
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/12/20083.html

『俳句年鑑2009年版』を読む
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/12/2009.html

もう10年前なんですね。

これ以降、記事がないのは、あるとき、ベテラン女流俳人から、「あんなもの、読んで、なんになるの?」というカジュアルな感想をいただいたことがきっかけです。「そういえば、不毛かも」と、私は真摯に受け止めて、それで、もうやらなくなったわけです。「住所録として便利」以上の意味は、少なくとも批評という点では、ない。そういう判断。実際には、取り上げて意義のある「巻頭提言」もあったように思うのですが、とにかく、信治さんと私とではやらなくなった。

それはそれとして、このところ、SNS等でほんのちょっとだけざわついていましてね、それは『俳句年鑑2018年版』の「40代・男性俳人」の項(櫂未知子)をめぐって。

ざわつきの要旨は、数名の作家が「わからない」で片付けられていること。

でもね、わからないものはわからないわけですし、書き手の櫂未知子氏も、
さんざん調べた、読んだ。でもわからない。私には氏の作品を論ずる資格がないようだ。(田島健一に関する箇所)
と書いている。「資格がない」と潔く認めています。

問題は、わからないとしか書きようのない作家を、「論ずる資格」のない書き手が取り上げねばならないという、その事情です。

書き手(櫂)にとって誠実な態度とは、一連の「わからない」作家を取り上げないことです。

ところが、そうも行かない。世代ごとの主要作家の顔ぶれがなんとなく決まっているから。

このことのほうが問題、という捉え方もできそうですよ。


取り上げる作家の陣容とそれぞれの発表句は、編集部から手渡されるらしい(伝聞です。書き手自身が資料を集めることもするのだろう)。

世代別の記事で取り上げられる作家の陣容は、書き手が変われば変わっていくのが自然かもしれない。ところが、そうはならない。

こうして「俳壇」(カギ括弧付き)が固定化されていく。

「わからない」で片付ける書き手・櫂未知子の書きぶりにざわつく以前に、それによって垣間見られる「俳壇」の固定化、俳句情況の退屈な生態(静態)をこそ、語らなければならないのではないですか。

「あんなもの、読んで、なんになるの?」という10年近く前の助言は正しかったのかもしれないなあ、と振り返りつつ、今年もあとわずか。

みなさま、良い年をお迎えください。


2017年12月29日金曜日

●金曜日の川柳〔水本石華〕樋口由紀子



樋口由紀子






消音器付きの鐘売って来いってか

水本石華 (みずもと・せっか) 1949~

我が家は寺だから、身に堪える一句である。除夜の鐘の音がうるさいと苦情が来る世の中になった。みんな、イライラしている。みんな、疲弊している。みんな、ぎりぎりなんだと思う。

寺側からなら「消音器付きの鐘」を「買って来いってか」とぼやいてしまいそうだが、それではあまりにストレートすぎて、身も蓋もない。「売って来いってか」で場面が変り、愛嬌が出た。そんな商魂もありだろう。苦情を言うのも言われるのも、商魂たくましいのも商魂にのせられるのも、人間の可笑しみである。正面からではなく、側面からの批評性と創造性。世相を把握している。〈米研けば春の小川が濁るだけ〉。来年こそはすべての人が寛容に暮らせる世の中でありますように。「杜人」(2017年刊)収録。

2017年12月27日水曜日

●蒲団干す

蒲団干す

帆をあぐるごとく布団を干す秋日  皆吉 司

干蒲団うすむらさきに沖はあり  菅原鬨也

他所者のきれいな布団干してある  行方克巳

名山に正面ありぬ干蒲団  小川軽舟

ビルに住みコンクリートに布団干す  岸本尚毅〔*〕


〔*〕『俳句界』2018年1月号

2017年12月26日火曜日

〔ためしがき〕 数えていた 福田若之

〔ためしがき〕
数えていた

福田若之


電車の窓越しに風景を見ながら、ふと、自分が無意識のうちに何かの数を数えはじめているらしいことに気づく。

頭のなかで数が自動的に増えていくので、景色を眺めながら自分が何の数を数えているのか確かめてみると、それは視野に入った架線の支柱の数だった。そんなものを数えたからといって特に意味はないはずなのだが、気がつくとそれを数えていた。

書いていて嘘みたいだけれど、昨日あったほんとうの話だ。

2017/12/19

2017年12月25日月曜日

●月曜日の一句〔上田信治〕相子智恵



相子智恵






公園の冬温かし明日世界は  上田信治

句集『リボン』(邑書林 2017.12)所収

「クリスマスだな」と思いつつ、出勤するためにドアを開けた瞬間、昨日に比べて今日の東京はずいぶんと暖かくて、ちょっと拍子抜けしながらマフラーを外した。掲句がふわっと響いた。

〈明日世界は〉という言葉には何が続くのだろうと考えると、どうしても暗いイメージが湧いてくる。ルターの「明日世界が滅ぶとしても、私はリンゴの木を植える」という人口に膾炙した言葉のように、ポジティブなことはほんの一足ずつしか進められないのに、壊すのは一瞬であって、いきなり投入された「明日」という限定性と「世界」の大きさに、どうしても“破壊までの瀬戸際感”が感じられてくるからだ。

けれどもそこに至るまでの、あまりにもありふれた「公園」という場所が思いのほか「冬温し」な状態というのはちょっと嬉しくて、〈明日世界は〉という大がかりな言葉にまで、その何気ない日常の嬉しさがうまく及んでいく。不穏で平穏、日常で非日常。ゆるゆるとした不思議な味わいのある句だ。暖かくて拍子抜けするクリスマスの朝のように、ちょっと気の抜けたハッピーな明日が、世界中に来るといいと思った。

メリークリスマス。

2017年12月24日日曜日

■merry christmas

Merry Christmas

2017年12月22日金曜日

●金曜日の川柳〔森雄岳〕樋口由紀子



樋口由紀子






虐待された列に煮崩れたジャガイモ

森雄岳 (もり・ゆうがく)

もうすぐ一年が終わる。だんだんと生きにくい、怖い世の中になってきた。掲句もどきっとして、どうしようもないやりきれなさを感じた。「虐待」は今もどこかで行われている。そんな現実を直視している。

「煮崩れたジャガイモ」は箸でつかめない。あとかたもなく、元に戻れない。「煮崩れたジャガイモ」が目に浮かび、不安の正体のようでやるせなくなる。「列に」の「に」を省いて中七にすることも可能だが、あえて「に」をつけることによって、強く視点を押えている。言葉を洗練さす方に向かうのではなく、実在感を出し、現実をひとつの根拠にしている。どのような目で社会を見ているのか。川柳が忘れかけていたものがある。「川柳杜人創刊70周年記念句会・山河舞句追悼句会」収録。

2017年12月21日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将







命なりわづかの笠の下涼み 芭蕉

『芭蕉全句集』(桜風社)によると、『竹人本全伝』貞享元年の条に「其十三年前初下りさ夜の中山にて」と端書されているから、前回の「山のすがた蚤が茶臼の覆かな」と同じく、延宝四年の作と推定される。

前書きに「佐夜中山にて」とある。静岡県掛川市に位置する峠のことである。旅吟、いや、江戸から帰郷する際の句である。東京・静岡・三重の距離を考えると、旅程の半分も到達していない。「命なり」は、西行法師がこの地で歌った「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」(『新古今和歌集』)をふまえている。「命なりけり」は「命あってのことだ」という意味。

「佐夜」といっても、掲句は「笠の下涼み」なので、昼の景である。「命なり」は自分の命のことを言っており、木陰も何もないまま、笠の下のみの影で自分を癒し、黙々と歩んでいる。前書きと合わせると、自身の身の回りの空間しか描いていないのにも関わらず、芭蕉の目線の奥の風景を楽しむことができる。

お笑い芸人が人文字で漢字を表現することもなく、命の炎は、詠み続けることで旅の間も煌めき続けるのである。

2017年12月19日火曜日

〔ためしがき〕 意味することの演劇、ということ 福田若之

〔ためしがき〕
意味することの演劇、ということ

福田若之


前回のためしがきに、意味することの演劇、ということを書いた。なぜ「演劇」なのか。まずは、そのことについて、ためしに簡単に書いてみることにする。

エリック・ベントリーは、『ドラマの生命』The Life of the Dramaにおいて、「演劇的状況とは、それを最低限のものにまで切り詰めるなら、すなわちAがBの役を演じるところをCが観るというものである」("The theatrical situation, reduced to a minimum, is that A impersonates B while C looks on.")としている。「意味することの演劇」という喩えは、演劇についてのこうした通念を念頭においたものだった。

ベントリーの記述はしばしば演劇の「定義」とみなされるものだが、僕としては、やはりこの一文をそうしたものとして扱うことは避けたいと思う。それでも、こうした言葉が教えてくれることがひとつある。それは、演劇という形式がそれほどまでに観客を必要としてきたという歴史的な事実だ。「意味することの演劇」という喩えにおいて重要なことは、意味するということをその品詞が示唆するとおり何らかの出来事として捉えるということや、意味することを表象することに結びつけるということだけではない。経験的に、意味するということがそれを観る第三者の存在を必要としているように思われるということが、それらに劣らず重要なことだった。

基本的には意味しないはずの物たちが、それを感じとるひとの前で、意味するもの(シニフィアン)の役を、与えられたものとして演じる。ひとは、こうした状況のうちにあって、基本的には意味しないはずの物を、あたかも意味するものであるかのように捉える。すなわち、たとえば、紙に特定のかたちで染みついたインクという物を、何らかのことがらを意味する文字列として読みなすのである。

とはいえ、いったいどういう契機において、基本的には意味しないはずの物たちが、意味するものの役を演じるということが可能になるのか。要するに、意味することのチャンスとはいかなるものであるのか。

それは、少なくとも、観る者の側だけからでは説明することができない。たとえば、仮に、意味しないはずの物たちが意味するのは、観る者がそれを欲望するからだとしてみよう。すると、ただちに、その欲望はいったいどこから湧くのかという問いが浮上する。基本的には意味しないはずの物たちからなる世界には、純然たるシニフィアン、すなわち、本来的に何かを意味する宿命にあるものは存在しないはずだ。ならば、ひとは基本的には意味しないはずの物たちにどこまでもとりまかれながら、意味するという出来事が基本的にはいっさい起こらないはずのところで、いつどうしてこの出来事を欲望することになるというのか。この仮説では、それについて、何の答えも用意されていない。欲望を、たとえば直観なり解釈なりに置き換えたとしても、同じことだ。

だが、いま、この問いにこれ以上深入りすることはやめておきたい。そもそも、意味という名詞による考えも、意味するという動詞による考えも、結局は現実にあてがわれた一面的な見方にすぎなかったはずだ。現実について言える確かなことがあるとすれば、論理的にはこれらの考えは互いに相容れないように思われるにもかかわらず、経験的にはその両方を同時に信じうるということだけだ。要するに、どちらか一方が正しいとは言えないのだから、大事なのは、一方を正しいとした場合に考えられることよりはむしろ、この矛盾する考えが両立してしまうということそれ自体をもとにして考えられることだ。

もしかすると、物理学が量子について語る場合と同じようにして、意味について語る必要があるのかもしれない。量子は、おそらく、現に波動であるわけでもなければ、現に粒子であるわけでもなく、ましてや現に波動であり/粒子であるわけでもなくて、強いて言うなら、ただ量子であるにすぎないと言うべきなのだろうが、物理学は、必要に応じて、あるときは波動を扱うのと同じ仕方で、あるときは粒子を扱うのと同じ仕方で量子を扱うことで、量子のふるまいについてうまく説明することができる。

思うに、意味についての当座の問題は、むしろ、どうなっているのかおそらく正確には語りえないだろう現実を、それでも、まるで異なる二つの便宜的な説明のどちらもを同時に信じうるということをてがかりに、いったいどう生きるか、ということではないだろうか。言い換えれば、現実を構想することではなく、また、現実を意味することでもなく、まずは感じとることが問題なのではないだろうか。

たとえば、意味をある特定のかたちに組織することによってその中心にはじめて浮き彫りになる非意味を通じて、意味するものと信じられたそれらが実のところ基本的には意味しないはずの物たちであることを再認できるようにすること。二通りの便宜的な説明のあからさまな矛盾を生きるこうしたいとなみを具体化することによって、ひとはかろうじて現実を感じとることができるはずだ。たとえば、句を読み書きすることは、きっとそのようにして、おそらく正確には語りえない現実を感じとることにかかわりうるのである。

2017/12/18

2017年12月18日月曜日

●月曜日の一句〔友岡子郷〕相子智恵



相子智恵






雄ごころは檣(ほばしら)のごと暮れ易し  友岡子郷

句集『海の音』(朔出版 2017.09)所収

〈雄ごころ〉という万葉以来の言葉や〈檣(ほばしら)〉など、言葉の調べが美しく、格調が高い。

勇壮な雄々しい心は、まるで船のマストのようだという。いかにも男性的な象徴性のある中七までの力強さは、しかし冬の日が早々に暮れていく〈暮れ易し〉で、すっと哀愁に変わる。出だしが雄々しいからこそ、〈暮れ易し〉に回収されたときの寂しさが際立つ。

「ごとし」の句というのは観念の句ということになるだろうが、この句は〈檣〉と〈暮れ易し〉によって、冬の海辺の日暮れが脳裏に浮かんできて、「ごとし」の句でありながら風景句として、もの寂しい映像がくっきりと浮かんでくるのがとても美しい。

〈雄ごころ〉からの冬の夕暮れ、その残照。それはまるで老いのもつ透明な静けさや余韻のようでもある。

2017年12月15日金曜日

●金曜日の川柳〔須崎豆秋〕樋口由紀子



樋口由紀子






長靴の中で一ぴき蚊が暮し

須崎豆秋 (すざき・とうしゅう) 1892~1961

一気に寒くなった。こんなに寒いのに先日台所に蚊が一ぴき弱弱しく、けなげに飛んでいた。どうするつもりなのだろうと思った。掲句も長靴に蚊がいるなんて思わなかったのだろう。長靴を履こうと足をいれようとしたら、一ぴきの蚊が飛び出してきた。その驚きが一句になった。「一ぴき」という限定がいい。

「長靴」もいい。蚊がいそうなところを思い浮かべると水たまりとか茂みとかだが、長靴は言われてはじめて、確かに蚊がいそうだと思った。すぐ思い浮かぶ、あたりまえのところだとおもしろくない。かといって、ありえない、とんでもないところだとリアリティがなく、絵空事になってしまう。そのちょうどいいポイントが「長靴」のような気がする。「暮し」もいい。蚊にあたたかいまなざし感じる。モノとの距離の取り方がうまい。

2017年12月12日火曜日

〔ためしがき〕 意味は存在するか 福田若之

〔ためしがき〕
意味は存在するか

福田若之


意味、という名詞を認めることによって、仮にその存在を確かなものだとしてみよう。意味が、ときによって、あるいは、ところによって、あったり、なかったりするのだとしてみよう。すると、非意味は、ドーナツの穴のように、意味にとりまかれながら、場合によってそこに虚ろに現れうる何らかの感じとして理解される(非意味であって、無意味ではない。無意味とはある特別な種類の意味にすぎない)。ドーナツのないところにドーナツの穴などありえない。それはドーナツによって作り出される、ドーナツでない空白のことだ。それと同じく、意味のないところに非意味はありえない。ただし、この場合、意味は、そのありようによっては、非意味を伴わないことがある。あんドーナツには穴がない。

だが、意味する、という動詞のみが許されるのだとしたらどうだろうか。物とは別に意味なるものが存在するなどと信じることをやめてみると、どうだろうか。その場合は、ただ数々の物だけが存在し、意味するということは、それらの物に割り振られた、ある特別な演技にすぎないということになる。この場合は、物は基本的には意味しないのであって、それらの基本的には意味しないものたちによって、意味することの演劇がなりたつことになる。

だから、そもそも、意味という名詞によって考えるか、意味するという動詞によって考えるかによって、世界はがらっと変わってしまう。だが、肝心なのは、どちらかひとつを選ぶことではない。ひとは、意味という名詞によって考えられる世界と、意味するという動詞によって考えられる世界との、どちらをも同時に信じうるような現実を生きている。意味という名詞による考えも、意味するという動詞による考えも、結局はその現実にあてがわれた一面的な見方にすぎないのであって、現実そのものではないということだ。

2017/12/12

2017年12月11日月曜日

●月曜日の一句〔野崎海芋〕相子智恵



相子智恵






ラガー等のたたきあふ肩胸背腹  野崎海芋

句集『浮上』(ふらんす堂 2017.09)所収

ラガー等の喜びを、叩き合う動きと肉体の部位だけで表現した句。

試合に勝った後にチームメイトが叩き合って喜んでいるのか、または相手チームの健闘を讃えての挨拶だろうか。

眼目は下五の〈肩胸背腹〉のなだれ込むような疾走感だ。肩、胸、背、腹という肉体の断片によって、大勢で群がって叩き合っている喜びの瞬間が見えてくる。

肉体の断片の羅列が押し寄せてくるだけで、彼らの汗や体臭、雄叫びはもちろん、ノーサイドの精神といった、ラグビーの本質までイメージされてくる。その独特の「汗臭い爽やかさ」がしかと伝わってくるのである。

2017年12月9日土曜日

【新刊】上田信治句集『リボン』

【新刊】
上田信治句集『リボン』

邑書林ウェブショップ

2017年12月8日金曜日

●金曜日の川柳〔菊池良雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






刺身なら今夜は自首をやめておく

菊池良雄

ふと、亡父を思った。仕事から帰って、晩酌するのが楽しみで、そのために働き、生きているようにみえた。夕餉の食卓に刺身がのっていると、殊の外、嬉しそうだった。男の人には珍しいほどの笑顔の似合う人だったので、それは得も言われぬくらいの満面の笑みだった。

父は就きたい職業でなかったので、不本意な仕事だったのだろう。誰に相談することなく、56歳の定年できっぱりと仕事を辞め、小さな事業を始めた。母はずっとそのことを愚痴っていた。晩酌を美味しく飲むために言っておかなければならないことも言わずに先送りしていたのだろう。そして、生涯自首をしないままに、68歳であっけなく逝ってしまった。「ふらすこてん」(第54号 2017年刊)収録。

2017年12月7日木曜日

●木曜日の談林〔井原西鶴〕浅沼璞



浅沼璞







大晦日定めなき世のさだめかな 井原西鶴

『三ケ津哥仙』(1682年)所収

宗因流の後継者といえばなんてったって西鶴。掲句はその代表作である。例によって和歌の無常観や『徒然草』の風俗描写などを下敷きに、当時の都市生活者の大晦日を詠んでる。

近世の町人は現金よりもツケ(掛け)でものを売買してた。「大晦日」はその年間貸借の総決算日だった。貨幣経済がもたらした都市生活の大きな特徴として、貸し借りの信用取引でもって生計をたてる習慣をあげることができる。太っ腹だ。

だから掲句は、〈なんの定めもない無常な浮き世にあって、大晦日だけは年間の貸借を総決算する定めの日である〉って感じ。それを受け、〈無常の浮き世を知る文学者の目と、無情な貨幣経済を認識する都市生活者の目が、ふたつながら活かされたケーザイ俳句〉と以前評したことがある。西鶴は晩年、浮世草子で「大晦日」の町人たちを描き、『世間胸算用』と題して板行。だから「ケーザイ俳句」というのもあながち間違ってはないと今でも思ってる。けど何んか足らない。

いうまでもなく当時の年齢は数え年であった。考えようによっては全員が1月1日をバースデーとするわけで、大晦日はその前日ということになる。めでたい……とばかりもいえない。なんせ人生50年という時代だ。アラフィフは言わずもがな、アラフォーの町人とて無常を感じずにはおれなかったろう。

果たして西鶴も52歳で病没したが、そこは西鶴、辞世の前書で〈人生50年、それさえ自分には十分すぎるのに、さらに2年も長生きしてしまった〉としたためた。太っ腹すぎる。(辞世については、いずれ西鶴忌の時節に)

2017年12月6日水曜日

●うつくし

うつくし

美しやさくらんばうも夜の雨も   波多野爽波

うつくしさ上から下へ秋の雨  上田信治〔*〕

東京の美しき米屋がともだち  阿部完市

美しきことはよきもの松の内  星野立子


〔*〕上田信治句集『リボン』(2017年11月/邑書林)

2017年12月5日火曜日

〔ためしがき〕 書きものをめぐる喩え 福田若之

〔ためしがき〕
書きものをめぐる喩え

福田若之


杉本徹「響きの尾の追跡」(『ふらんす堂通信』154、2017年10月)を読んだ。

この文章における「空気」あるいは「空気感」という言葉のあらわれようは、僕にとって、とても喜ばしいものだ。書きものを流れる風、あるいは、一陣の風としての書きものということを、折にふれて考える。この喩えが、いったい、何を言い留めようとしているのかということを。書きものに風を感じるということそれ自体はたしかなのだが、その喩えで何を言わんとしているのかを僕はうまく説明することができないでいる。ついしばらく前にも、野見山朱鳥の書いた句の群れを前にして、僕はそれを感じたばかりだ。


「響きの尾の追跡」に話を戻そう。この評は、まさしく喩によって、福田若之『自生地』(東京四季出版、2017年)と捉えようとしている。タイトルの「響きの尾の追跡」という言葉については、こう書かれている。

もちろん、一句の自立性を放棄したわけではないし、要所に心ふるえる一句があるのも事実である。しかし、響きの尾の追跡とでも形容しないと取っかかりがつかめないほど、連作風につづく圧倒的な句の数が、この一冊には詰めこまれている。(「響きの尾の追跡」、39頁)
形容すること。それも喩によって形容すること。それが、一冊の本を読むことの取っかかりになる。そのうえで、『自生地』に記された「よしきりの巣」という喩と「結晶する」という喩が並べられる。
雑然とからまりあうスパゲッティは、まるでよしきりの巣を思わせる。僕は、よしきりの巣のような句集を編みたいと思う。それは、僕自身の、あの懐かしい古巣の記憶にも通じるものになるだろう。(『自生地』、190頁)

僕は句集を編むことばかり考えてきたつもりだった。句集を編んでいるつもりだった。けれど、いまやそれを撤回しなければならない。僕は句集を編みたいのではなかった。僕は句集を、結晶させたかったのだ。 (同前、215頁)
「響きの尾の追跡」では、これらふたつの記述に矛盾のようなものを見出す――「「よしきりの巣のような句集」「結晶させたかったのだ」――どっちなんだ? とつっこみたくもなるが、結果をみれば「よしきりの巣」となったことは明白である」(「響きの尾の追跡」、39頁)。『自生地』は「よしきりの巣」だとする読みを、僕は否定するつもりはまったくない。むしろ、僕が多少のもどかしさを感じながら読んだのは、次の一節だった。
この人は五七五の定型を、紙の裏側から息づかせるような、独特の不思議なセンスをもっていると、ふと思う。それゆえ、そうであればなおさら、句集として提示するのだから収載句をもっと絞りこんで一冊を「結晶」させてほしかったと、つくづく感じる。 (同前、40頁)
「五七五の定型を、紙の裏側から息づかせる」、すばらしい喩だ。だから、それだけに、「よしきりの巣」と「結晶する」ということをめぐって、ひとつの可能性が見落とされてしまったことを、僕は残念に思う。それはすなわち、句集が、よしきりの巣のようなものとして、結晶する、という可能性だ。喩としてなら、それは大いにありうることのはずなのだから。 そして、これは、句集を、よしきりの巣のようなものとして、編むこととは、まったく違っている。この認識の生成変化は、『自生地』において、ひとつのターニングポイントになっている。

整理しておこう。『自生地』において、「結晶する」ということに背反しているのは、「編む」ということであって、「よしきりの巣」ということではない(そう僕は読む)。

もちろん、この喩と喩の関係の構築こそが失敗に終わっているということはあるかもしれない。けれど、僕は「響きの尾の追跡」の次の一節を読むとき、それがたとえ失敗であるとしても、単なる失敗ではなかったと思うのだ。
〔……〕この一冊は、ある一定量の句群を一単位として、それらが輻輳し、錯綜し、流れ流れてゆく、トータルで大きな連続体――読み手にはどうしたってそう印象づけられる。(同前、39頁)
流れ流れてゆくものからなるよしきりの巣というものがあるのだとしたら、結晶するよしきりの巣があったって、いいじゃないか。僕はそう思う。

2017/12/5

2017年12月3日日曜日

♣週俳の記事募集

週俳の記事募集


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長短ご随意、硬軟ご随意。

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2017年12月2日土曜日

【新刊】週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』

【新刊】
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』(草思社文庫/2017年12月6日)

2017年12月1日金曜日

●金曜日の川柳〔加藤久子〕樋口由紀子



樋口由紀子






すったもんだのあげくに顔を差し上げる

加藤久子 (かとう・ひさこ) 1939~

「擦った揉んだ」、「擦る」は「物と物が力をこめて触れ合わす」、「揉む」は「両手の間に挟みこする」が合体して、「もつれが起こって争う」「ごたごたもめるさま」になる。とんでもない言葉である。

「すったもんだ」は生きているとどうしても起ってしまい、避けては通れない。それにしても顔を差し上げてしまうなんて、そんな「私」とはなんなのだろうかと思った。「すったもんだ」の事態を自分の身体で対処して、自分を守る。突拍子である。「すったもんだ」と「顔を差し上げる」を同じ俎上にあげているところにアナーキーさを感じる。

もう顔まで差し上げてしまったのだから、私は新たな顔でなにごともなかったように平気な顔で暮らしていく。現実を乗り越え、生きにくい世の中を遣り過していく。人間のふてぶてしさとたくましさ感じる。「MANO」20号(2017年刊)収録。