2017年12月19日火曜日

〔ためしがき〕 意味することの演劇、ということ 福田若之

〔ためしがき〕
意味することの演劇、ということ

福田若之


前回のためしがきに、意味することの演劇、ということを書いた。なぜ「演劇」なのか。まずは、そのことについて、ためしに簡単に書いてみることにする。

エリック・ベントリーは、『ドラマの生命』The Life of the Dramaにおいて、「演劇的状況とは、それを最低限のものにまで切り詰めるなら、すなわちAがBの役を演じるところをCが観るというものである」("The theatrical situation, reduced to a minimum, is that A impersonates B while C looks on.")としている。「意味することの演劇」という喩えは、演劇についてのこうした通念を念頭においたものだった。

ベントリーの記述はしばしば演劇の「定義」とみなされるものだが、僕としては、やはりこの一文をそうしたものとして扱うことは避けたいと思う。それでも、こうした言葉が教えてくれることがひとつある。それは、演劇という形式がそれほどまでに観客を必要としてきたという歴史的な事実だ。「意味することの演劇」という喩えにおいて重要なことは、意味するということをその品詞が示唆するとおり何らかの出来事として捉えるということや、意味することを表象することに結びつけるということだけではない。経験的に、意味するということがそれを観る第三者の存在を必要としているように思われるということが、それらに劣らず重要なことだった。

基本的には意味しないはずの物たちが、それを感じとるひとの前で、意味するもの(シニフィアン)の役を、与えられたものとして演じる。ひとは、こうした状況のうちにあって、基本的には意味しないはずの物を、あたかも意味するものであるかのように捉える。すなわち、たとえば、紙に特定のかたちで染みついたインクという物を、何らかのことがらを意味する文字列として読みなすのである。

とはいえ、いったいどういう契機において、基本的には意味しないはずの物たちが、意味するものの役を演じるということが可能になるのか。要するに、意味することのチャンスとはいかなるものであるのか。

それは、少なくとも、観る者の側だけからでは説明することができない。たとえば、仮に、意味しないはずの物たちが意味するのは、観る者がそれを欲望するからだとしてみよう。すると、ただちに、その欲望はいったいどこから湧くのかという問いが浮上する。基本的には意味しないはずの物たちからなる世界には、純然たるシニフィアン、すなわち、本来的に何かを意味する宿命にあるものは存在しないはずだ。ならば、ひとは基本的には意味しないはずの物たちにどこまでもとりまかれながら、意味するという出来事が基本的にはいっさい起こらないはずのところで、いつどうしてこの出来事を欲望することになるというのか。この仮説では、それについて、何の答えも用意されていない。欲望を、たとえば直観なり解釈なりに置き換えたとしても、同じことだ。

だが、いま、この問いにこれ以上深入りすることはやめておきたい。そもそも、意味という名詞による考えも、意味するという動詞による考えも、結局は現実にあてがわれた一面的な見方にすぎなかったはずだ。現実について言える確かなことがあるとすれば、論理的にはこれらの考えは互いに相容れないように思われるにもかかわらず、経験的にはその両方を同時に信じうるということだけだ。要するに、どちらか一方が正しいとは言えないのだから、大事なのは、一方を正しいとした場合に考えられることよりはむしろ、この矛盾する考えが両立してしまうということそれ自体をもとにして考えられることだ。

もしかすると、物理学が量子について語る場合と同じようにして、意味について語る必要があるのかもしれない。量子は、おそらく、現に波動であるわけでもなければ、現に粒子であるわけでもなく、ましてや現に波動であり/粒子であるわけでもなくて、強いて言うなら、ただ量子であるにすぎないと言うべきなのだろうが、物理学は、必要に応じて、あるときは波動を扱うのと同じ仕方で、あるときは粒子を扱うのと同じ仕方で量子を扱うことで、量子のふるまいについてうまく説明することができる。

思うに、意味についての当座の問題は、むしろ、どうなっているのかおそらく正確には語りえないだろう現実を、それでも、まるで異なる二つの便宜的な説明のどちらもを同時に信じうるということをてがかりに、いったいどう生きるか、ということではないだろうか。言い換えれば、現実を構想することではなく、また、現実を意味することでもなく、まずは感じとることが問題なのではないだろうか。

たとえば、意味をある特定のかたちに組織することによってその中心にはじめて浮き彫りになる非意味を通じて、意味するものと信じられたそれらが実のところ基本的には意味しないはずの物たちであることを再認できるようにすること。二通りの便宜的な説明のあからさまな矛盾を生きるこうしたいとなみを具体化することによって、ひとはかろうじて現実を感じとることができるはずだ。たとえば、句を読み書きすることは、きっとそのようにして、おそらく正確には語りえない現実を感じとることにかかわりうるのである。

2017/12/18

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