2018年4月30日月曜日

●月曜日の一句〔小滝徹矢〕相子智恵



相子智恵






草餅や縄文土器に調理痕  小滝徹矢

句集『赤道の国から』(雙峰書房 2017.10)所収

縄文土器に調理をした痕があったというのは、数年前に研究で明らかになったことのようである。現在の私たちと同じように煮炊きをしていた遥か昔の祖先のことを思いながら、草餅を食べている。草餅の起原もかなり古いようだが、草を練り込むところに原始的な感じがあり、どこか鄙びた和菓子である。木の実などを主食に食べていた縄文時代と遠く響き合う面白い取り合わせである。

2018年4月29日日曜日

〔週末俳句〕空き罐とSNSその他

〔週末俳句〕
空き罐とSNSその他

西原天気


SNSに関するこの把握。




俳句世間にも、共通部分がある。年齢層が上がるぶん、結婚や子どもや「クリームがめっちゃのったすごい飲み物」が少なくなる/なくなるかんじでしょうか。

ところで、俳人クラスターのツイッターを見ていて、かねてより思うこと、いくつか。

1 やたら締切に追われている。俳人全員が文筆業か?と思うくらいに。

2 突然、根本的な俳論が始まったりするが、かなりの割合でスルーされる。

3 レイバンのサングラスの広告が定期的に出現。


『鷹』2018年5月号をめくる。南十二国「俳句時評:詩人の仕事』は、『俳句』2018年2月号の高野素十特集をよくまとめて、そのうえで持論を展開。興味深い。
俳句作品から受ける印象が、必ずしも作家の人物像に一致するものでないことは大方の知るところであろう。(…)俗世間に生きる俗人としての自分が、その世俗的な気分のままで俳句を詠むのではない(…)詩人が詩人の仕事に取りかかるとき、そこには必ず俗気にまみれた日常の「我」から精気ただよう非日常の「われ」へと飛躍するための人格変換が行われるのである。
これに首肯する人としない人、両方がいるでしょうが、いずれにせよ、社会的人格と俳人としての人格は別のような気がします。さらには、ネット人格も別。


きれいなブリキ罐は、何かに使いたくて取っておくでのですが、でも、使い途がなくて、やがて廃棄。

BLOSSOM TEMPTATION(!)。ここにかつて入っていた何物かが、空っぽになって以降も永遠に魅了してくれるなら、使い途がなくても取っておきたい。

ちょっとロマンチックなことを言ってみました。

黄金週間の始まりですね。みなさま、健やかにお過ごしください。

2018年4月28日土曜日

◆週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

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【記事例】

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句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

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2018年4月27日金曜日

●金曜日の川柳〔米山明日歌〕樋口由紀子



樋口由紀子






終らないものにかけてるマヨネーズ

米山明日歌 (よねやま・あすか)

「終わらないもの」とは何だろうか。見通しのたたないもの、解決できないものだろう。作者の心のうちにある自我の痛みのようなものかもしれない。ピリオドを打ちたくても打てない。そういうときに人は自分なりのやり方で対処しようとするか、あるいは諦めの心境に切り替えようとする。

味をなんとかしたいときのマヨネーズは万能の調味料である。それを「終わらないもの」にぎゅっとしぼってかけてみた。マヨネーズにはなにがしかの霊力のようなものがそなわっていて、効き目があるかと思ったが、やっぱりだめである。「終わらないもの」は終わらないままにずっとそこに居続けている。それはそれでしかたがないことなのかもしれない。「マヨネーズ」で抒情を出すことができる。「おかじょうき」(2017年刊)収録。

2018年4月26日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








龍宮もけふの塩路や土用干 芭蕉

これも前回同様、延宝五年(一六七七)の作。

「も」によって、目に見えない龍宮を土用干の日に思い描く。読者は、「濡れる」と「乾く」の二つのイメージを行き来することになる。(龍宮は濡れているのだろうか?)「塩路」については、今日の慣用では「潮路」と置き換えて読めばよいと思う。考えてみれば、芭蕉と共通のイメージを持たせてくれる昔話というものはありがたいものである。仮名の配置のバランスもリズムを作り出している。

この句をどこで読みたいか、ということを考えることは楽しい。私たちは何をどうしてもどのみち龍宮には行けないのである。海から龍宮を想像したのが芭蕉なら、我々は畳にべったりとうつ伏せになって句の世界へワープしたい。

2018年4月24日火曜日

〔ためしがき〕 切株 福田若之

〔ためしがき〕
切株

福田若之

切株やあるくぎんなんぎんのよる 加藤郁乎

この句、「歩く銀杏銀の夜」と「或る苦吟難吟の夜」の二通りに読みうるということはすでに指摘されているのだけれど、「切株や在る」でひとかたまりという読みはどうだろう。

切株はあるか。この問いが「苦吟難吟の夜」に発せられるという読みは、奇妙なものに思われるかもしれない。けれど、この「切株」が次の句を踏まえたものであるとすればどうか。

切株はじいんじいんと ひびくなり 富澤赤黃男

切株の存否を問うこと。それは、もしかすると、「じいんじいんと ひびく」ような何かの存否を問うことかもしれない。だとすれば、この問いは「苦吟難吟の夜」のものとして、まさしくふさわしいものに思われてきはしないか。そんなことを、ふいに思った。

2018/4/19

2018年4月23日月曜日

●月曜日の一句〔右城暮石〕相子智恵



相子智恵






上げ泥に蝌蚪の形の現るる  右城暮石

茨木和生『右城暮石の百句』(ふらんす堂 2017.11)所収

水田の脇の用水路の水上げをしているのだろう。用水路の端の方から泥を浚って畦の上に出してゆく。上げた泥から水が引いてくると、中にいた蝌蚪の形が現れてきた。てらてらと光る泥を被っていて見えないが、その形で蝌蚪がいるとわかるのだ。もちろんこの後、蝌蚪は水田に戻されるのだろう。春の命の一瞬を引き出した上手い句だなあ、と思う。

本書は、茨木和生が師の右城暮石の句を選び解説した書から引いた。原句は句集『天水』所収である。

2018年4月22日日曜日

〔週末俳句〕ありがたさ 黒岩徳将

〔週末俳句〕
ありがたさ

黒岩徳将


金曜日の夜、仕事から家に帰る途中にあるこの公園で植物を見るのを楽しみにしている。


(右から苺、蜜柑、林檎、檸檬。あなたはどれに座りたい?)

ナシの花はもう散ってしまい、今は桜桃の実がつきはじめた。


(風に吹かれて上手く撮れない)

「のんびりする」「リラックスする」ということがとても苦手な性格なので、公園の植物たちが「今はこんな感じです。見てね!」と言ってくれるのがありがたい。

スウェーデンの音楽プロデューサーの Avicii が亡くなった。私と同じ28歳だった。多くの友人達はこのことを嘆いている。

Avicii は私がスウェーデンに住んでいた2012年には流行り始めていた記憶がある。当時の私は、外国人の友達にクラブに連れて行かれて、どう踊ったり盛り上がったりすればいいかわからなかった(ナンパするなんてとんでもない)。ただ、音楽は好きだったので、あとで有名曲を友達に教えてもらったりしていた。Avicii の曲の歌詞は調べていないが、あとから考えれば「踊りたければ踊ればいいし、そうでないならただ聴いていればいい」という感じのメロディだと思い、ありがたかった。



生活をしていると、自分が何が苦手で、何を言ってほしいのか、ということを考える。腸が弱っているかも。ヨーグルト飲みます。

2018年4月21日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】句集の読み方 その8・あとがき 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
句集の読み方 その8・あとがき

西原天気



シリーズ的に掲載していた「句集の読み方」は「その7・本文」まで行って、そのままになっていたが、「あとがき」がないことには、どうにも収まりが悪い。だから、書いておくね(たいして内容はないけれど)。

「あとがき」に含まれる内容をあげていくと、

解題的なもの:この句集は私の第×句集であって、××年から××年の句作を収めたうんぬん。句集タイトルの謂れ。その他。

作者の来歴:奥付上部等に記されるプロフィールから漏れるもの。第一句集なら俳句を始めたきっかけ等。

謝辞:結社主宰、編集者等へのお礼のことば。

ほかにもいろいろ。

本文(句)が読まれる以前には与えたくない、かつ伝えておきたい情報がメインになるのだろう。「必要」が優先されるので、「面白い」あとがきは、経験上少ない。ユニークなあとがきも、あまり目にしない。そんななか、野口裕『のほほんと』(2017年12月10日/図書出版 まろうど社)あとがきの、その最後。
誰かに献辞を呈す、あるいは誰かに謝辞を捧げるような殊勝な心持ちは、とうになくしているので省略する。関係各位には諒とせられたい。
こういう突っ慳貪も、作者像・作風とマッチするなら、アリだな、と思いましたよ。


【句集の読み方・バックナンバー】
その1・付箋
その2・
その2・帯〔続〕
その3・署名
その4・序文
その5・書名
その6・さわる
その7・本文

2018年4月20日金曜日

●金曜日の川柳〔寺尾俊平〕樋口由紀子



樋口由紀子






マルクスは私か妻か金がたまらぬ

寺尾俊平 (てらお・しゅんぺい) 1925~1999

美容院で隣の会話の噛みあわなさに笑いをこらえて聞いていた。70歳前のお客さんと30歳前の美容師さんの有名人ネタなのだが、お客さんは当然知っていると思って話す、美容師さんはお客さんに合わせようと知っているふりをして答える。でも、共有されている情報がないから、全く噛み合わない。

「マルクス」だってそうなるだろう。カール・マルクス(1818~1883)はドイツ出身の思想家、経済学者で、世界の社会主義運動に多大な影響を与えた。が、今、名前が出ることはあまりない。掲句の発表された当時は「マルクス」はある意味で流行りの人であった。掲句はそれをいち早く取り入れている。マルクスは私有財産を否定していた。だから、その共有されている情報を俗っぽく引っ掛けて、つまりはお金が貯まらないことの言い訳をしている。「川柳研究」(226号/昭和43年刊)収録。

2018年4月19日木曜日

【俳誌拝読】『奎』第5号(2018年3月12日)2/2

【俳誌拝読】
『奎』第5号(2018年3月12日)2/2

≫承前

ひきつづき、同人諸氏作品より1句ずつ。

浅蜊静かCMに入るワイドショー  小春空

節分の鬼も一緒に笑ひたる  柴田健

春塵の駱駝の瘤の尖りけり  清水憲一

体温は答へを持ちて朧月  下楠絵里

薇の龍になりしを待ちゐたる  田中目八

春灯に吉右衛門の銘うしろ闇  中井草雨

寒鯉やベルトに伸びた穴がある  なつはづき

幾度も踏まれて音のせぬ落葉  原英

帰る鴨イヤフォンめいて離ればなれ  春野温

傷一つスーツケースに春の風  東影鈴子

春の泥片側だけが乾きだす  平山哲行

蜂蜜の底にたまつてゐて四月  細村星一郎

ピラミッドを文鎮にして春の海  松本青山

眼球は魚のにおい寝正月  都めぐみ

ふらここの鉄くさき手をつなぎ合ふ  森優希乃

地球儀の海の平らや日短  若林哲哉

なまはげの喉まで酒で焼けており  若林部長

(西原天気・記)



2018年4月18日水曜日

【俳誌拝読】『奎』第5号(2018年3月12日)1/2

【俳誌拝読】
『奎』第5号(2018年3月12日)1/2


A5判・本文74頁。代表:小池康生、編集長:仮屋賢一。巻頭近くに座談会「若手俳人の動向を見渡す・後編」(ゲスト:黒岩徳将)。

以下、同人諸氏作品より1句ずつ。

船室の窓は小さく鳥雲に  小池康生

人日の借りつぱなしのペン便利  仮屋賢一

流れざる小石のありて冬の川  野住朋可

耳たぶの豊かに垂れて水温し  安岡麻佑

なんとなくだるいみかんにたどりつく  茜﨑楓歌

どんと置く鶯餅に夕日射す  安藤翔

オムレツとなる卵つるりと春浅し  大元寿馬

啓蟄のそろそろ終わる野球拳  小倉喜郎

台車押す一重椿の森のなか  尾野会厘

紅梅の枝鶏卵を貫けり  金高晴人

春の鴨数ふる川の水薄し  寒天

あした穴を出ようとおもう熊であった  木田智美

春日傘人を呑み込むごと開く  桐木知実

冬草の斜めが当たる膝頭  クズウジュンイチ

春近しちくま文庫の人寝さう  くらげを

立春や瓶いつぱいの角砂糖  栗田歩

(つづく)

(西原天気・記)


2018年4月17日火曜日

〔ためしがき〕 砂糖水 福田若之

〔ためしがき〕
砂糖水

福田若之

水に砂糖の溶けひろがっていくような切れ目のない時間にあって、ひとは老人たることを他人事として遠ざけることによってかろうじて若者として生きるにすぎず、若者たることを他人事として遠ざけることによってかろうじて老人として生きるにすぎない。そんなことをしているうちに、宇宙は思うよりずっと速く燃える。成長と老化の別もなしに、ただ身体の果てまでもの代謝が、ほんの束の間を灯し尽くすばかりだ。ひとは自らの晩年のうちに生まれ、幼年のうちに死ぬ。川は流れて、草花は揺れる。それだけだ。このそれだけが、それでも尊い。

2018/4/16

2018年4月16日月曜日

●Trying to Write a Haiku for You

Trying to Write a Haiku for You

2018年4月15日日曜日

〔週末俳句〕雨の日曜日 橋本直

〔週末俳句〕
雨の日曜日

橋本 直


雨の日曜日。外出は止め、部屋の片付けをする。もう読まない雑誌とか、着なくなっていた服などを処分することに。今の家に引っ越して七年ほど経つのだけれど、いまだに開封されない段ボールが積みっぱなしだったので、思い切ってそれも片付けはじめると、カセットテープがケースごとでてくる。越す前にほとんど処分したんだけど、1ケースだけ残していたものだ。中身はすっかり忘れていたので、何があったっけ?と開けてみると、自分で録ったものの他に、熱心なフリッパーズ・ギター推しだった後輩が聴けってダビング(久しぶりに打ったなこの語)してくれたテープが出てきた。ぜひ聴けともらって以来一度も聴いてなかったから、なんとなく悪くて捨てなかったんだろう、たぶん。そういえば、昔はこんなふうに、気に入ったアーティストのカセットテープのやりとりがよくあったんだけど、ダウンロードが主流になった今って、その辺どうなっているんだろう。


捨てる前に聴いておこうかと思ってケースを開けてみると、「FM横浜 84.7」のメモが入っていた。「84.7」は局の音声周波数で、再生してみると、「エフエムヨコハマ・エイトフォーポイントセヴン」って「ハ」にアクセントがくる良い声が番組の合間に入るのがおしゃれだ。そういえば、フリッパーズ・ギターもおしゃれなイメージで、彼らは渋谷系などと呼ばれていたんだった。自分はどうも、そのような〈おしゃれさ〉には昔から縁がない。そろそろ片付けにもどろう。午後は雨が止むらしい。うまく片付いたら、どこかに出かけるとしよう。



2018年4月14日土曜日

◆週俳の記事募集

週俳の記事募集


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最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


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2018年4月12日木曜日

●木曜日の談林〔井原西鶴〕浅沼璞



浅沼璞








ぞちるらん上を下へと花に鐘 西鶴

『俳諧大句数』(延宝5年・1677)

西鶴の連句といえば、一昼夜23500句独吟という、あのギネス的記録を思う人が多いでしょう。これは一定の時間に的中した矢数(やかず)を競う京都三十三間堂の「通し矢」行事にあやかったもので、矢数俳諧とよびます。そのチャンピオンとして俳諧師西鶴の名は後世に残ったわけです。

無論この記録もいきなり達成されたものではありません。最初は百韻・16巻の1600句(1677年)、つぎに40巻の4000句(1680年)とステップアップした挙句の235巻(1684年)でありました。

掲出句は1600句ライヴ・巻三の発句。よく指摘されるように本歌は〈山里の春の夕暮来て見れば入相の鐘に花ぞ散りける〉(能因法師・新古今)。その結句を〈ぞちるらん〉とカットアップし、いきなり上五にすえただけではありません。本歌の〈鐘に花〉の語順をも〈上を下へと〉転倒させ、〈花に鐘〉と下五を仕立て、入相の花に鐘が散るという、文字どおり〈上を下へ〉の大騒ぎを演出。無心所着のナンセンスぶりが発揮されています。

で、さらにまた、その転倒を西鶴自身が脇の七七で受け、ナンセンスに拍車をかけます。

とへほにはねをひろげ行く雁

ハニホヘトをトヘホニハと逆詠みし、行く雁(帰雁)のハネへと言いかける巧みさ。〈とへほに〉の仮名文字は羽根の奇妙な動きを連想させもします。

なーんて評すのは自由やけど、凝りすぎやろ、これ。なんか羽根、凝ってきてしもたわ……By yukukari

2018年4月10日火曜日

〔ためしがき〕 樋口師匠とスピノザ 福田若之

〔ためしがき〕
樋口師匠とスピノザ

福田若之

ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズが図書館の本を50年のあいだ借りっぱなしにしていたという話があった。樋口師匠も、それほどまでではないが、なかなか本を返さないひとである。

樋口師匠というのは、森見登美彦の小説の登場人物で、『四畳半神話体系』には「師匠は私から借りた本を返さないのみならず、図書館から借りた本も返さない」と書かれている(森見登美彦『四畳半神話大系』、角川書店、2008年、107頁)。さて、樋口師匠のこんな言葉がある。
「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」
(同前、150-151頁)
この言葉のことがふと気にかかって、ひさしぶりに読み返してみると、ああこのひとの言うことはなんだかスピノザっぽいなと感じた。樋口師匠のこの言葉を大学生である語り手が聞くことになる世界で、語り手は樋口師匠の弟子をしている。その弟子がこんなことを言う。
「僕がいかに学生生活を無駄にしてきたか、気づいたのです。自分の可能性というものをもっとちゃんと考えるべきだった。僕は一回生のころに選択を誤ったんです。次こそ好機を掴んで、別の人生へ脱出しなければ」
(同前、150頁)
先に引用したのは、この弟子のことをたしなめる樋口師匠の言葉であった。師匠はさらに弟子に問う。
「君はバニーガールになれるか? パイロットになれるか? 大工になれるか? 海を股にかける海賊になれるか? ルーブル美術館の所蔵品を狙う世紀の大怪盗になれるか? スーパーコンピューターの開発者になれるか?」
(同前、151頁)
「なれません」と弟子が答えると、樋口師匠は葉巻を弟子に勧めて、こう言うのだった。
「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ。今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。君がいわゆる薔薇色の学生生活を満喫できるわけがない。私が保証するからどっしりかまえておれ」
(同前、151頁)
樋口師匠は、ひとびとの存在は可能性ではなく不可能性によって規定されているという。それは、逆にいえば、あるひとが今ここに存在しているありようこそがそのひとにとっての必然であるということだ。 可能性は当てにならない。不可能性こそが確かなものなのだ。だから、可能性に望みを託すことは悪いことだ。そう樋口師匠は主張する。

ここで『エチカ』をひらいてみよう。スピノザはこんなふうに述べている。
物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった。
(第1部、定理33。以下、『エチカ』からの引用はすべて畠中尚志訳(上下巻、岩波書店、1951年初版、1975年改版)による)
つまり、一切の物は今ここにあるようにしかありえなかったというのである。これは、樋口師匠が弟子に対して「今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。君がいわゆる薔薇色の学生生活を満喫できるわけがない」と言っていることと重なり合う。

さて、スピノザはいま引用した定理をもとに、偶然や可能という言葉が何を語るものであるかを考察する。
ある物が必然と呼ばれるのは、その物の本質ないし定義からか、それとも原因に関してかである。何となれば、ある物の存在は、その物の本質ないし定義からか、それとも与えられた起成原因から必然的に生起するからである。 次に、ある物が不可能と呼ばれるのも、やはり同様の理由からである。すなわちその物の本質ないし定義が矛盾を含むか、それともそうした物を産出するように決定された何の外的原因も存在しないからである。これに反して、ある物が偶然と呼ばれるのは、我々の認識の欠陥に関連してのみであって、それ以外のいかなる理由によるものでもない。すなわち、その本質が矛盾を含むことを我々が知らないような物、あるいはその物が何の矛盾も含まないことを我々がよく知っていてもその原因の秩序が我々に分からないためにその物の本質について何ごとも確実に主張しえないような物、そうした物は我々に必然であるとも不可能であるとも思われないので、したがってそうした物を我々は偶然とか可能とか呼ぶのである。
(第1部、定理33、備考1)
ひとが何かを偶然とか可能とか呼ぶのは、たんにその物が必然なのか不可能なのかを判断する材料が欠けているからでしかない。スピノザにとって、一切は必然であるか、そうでなければ不可能なのだ。樋口師匠の言う「我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」とは、要するにこのことではなかったか。

ところで、スピノザは善と悪について、それぞれ次のように定義している。「とは、それが我々に有益であることを我々が確知するもの、と解する」(第4部、定義1。太字は原文では傍点)。「これに反して、とは、我々がある善を所有するのに妨げとなることを我々が確知するもの、と解する」(第4部、定義2。太字は原文では傍点) 。それゆえ、彼は、まず悪について、こう述べる。
いかなる物も、それが我々の本性と共通に有するものによって悪であることはできない。それが我々にとって悪である限り、その限りにおいてそれは我々と対立的である。
(第4部、定理30)
善については、次のとおりだ。
物は我々の本性と一致する限り必然的に善である。
(第4部、定理31)
そして、このことからスピノザはひとつの帰結を導く。
この帰結として、物は我々の本性とより多く一致するに従ってそれだけ我々にとって有益あるいは善であり、また逆に物は我々にとってより有益であるに従って我々の本性とそれだけ多く一致する、ということになる。
(第4部、定理31、系。太字は原文では傍点)。
関連して、スピノザは次のとおり述べてもいた。
そこで私は以下において、善とは我々が我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段になることを我々が確知するものであると解するであろう。これに反して、悪とは我々がその型に一致するようになるのに妨げとなることを我々が確知するものであると解するであろう。さらに我々は、人間がこの型により多くあるいはより少なく近づく限りにおいて、その人間をより完全あるいはより不完全と呼ぶであろう。というのは、私が「ある人がより小なる完全性からより大なる完全性へ移る、あるいは反対により大なる完全性からより小なる完全性へ移る」と言う場合、それは「彼が一つの本質ないし形相から他の本質ないし形相に変化する」という意味で言っているのではなく(なぜなら例えば馬が人間に変化するならそれは昆虫に変化した場合と同様に馬ではなくなってしまうから)、単に「彼の活動能力――彼の本性を活動能力と解する限りにおいて――が増大しあるいは減少すると考えられる」という意味で言っているのであって、この点は特に注意しなければならぬ。(第4部、序言)
馬が人間になってしまったら、それはもはや馬ではないとスピノザは言う。とすれば、人間になることは端的に馬の本性に反したことであろう。同様に、樋口師匠は「いわゆる薔薇色の学生生活」というものは「バニーガール」や「海賊」や「大怪盗」になることと同じくらい彼の弟子の本性を外れたことであると考えているように見える。ところで、「いわゆる薔薇色の学生生活」が、仮に彼の弟子が自らの本性に一致するのを妨げるものであるとすれば、それは彼の弟子にとって悪であるということになりはしないか。

こうして、スピノザにおいては直接的に結びついているわけではないように見えるふたつのことがらが、樋口師匠においては直接的に結びつくことになるだろう。「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない」。可能性という言葉を無限定に使うこと、それはその人物が自らの本性に一致するのを妨げることである。だから、こうした可能性を信じることは樋口師匠にとって端的に悪なのだ。すなわち、「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ」。

可能性に望みを託すこと、それは希望を抱くことにほかならないだろう。スピノザに言わせれば、「希望および恐怖の感情はそれ自体では善ではありえない」(第4部、定理47、太字は原文では傍点)。希望と恐怖が対になっているのには理由がある。それは、定義からして対称の関係にあるのだ。希望の定義はこうである。
希望とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生まれる不確かな喜びである。
(第3部、諸感情の定義12。太字は原文では傍点)
これに対して、恐怖は次のとおり定義される。
恐怖とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生まれる不確かな悲しみである。
(第3部、諸感情の定義13。太字は原文では傍点)
そして、「これらの定義からして、恐怖なき希望もないし希望なき恐怖もないということになる」(第3部、諸感情の定義12および13、説明)。なぜか。

なぜなら、いま確認した定義からして、ひとは、ある可能性に希望を抱くとき、別の可能性に恐怖を抱いているのである。たとえば、樋口師匠の弟子が「僕は一回生のころに選択を誤ったんです。次こそ好機を掴んで、別の人生へ脱出しなければ」と言うとき、この弟子は別の人生へ脱出することに希望を抱くとともに、別の人生へ脱出できないかもしれないことに恐怖を抱いている。

恐怖のない希望はなく、また、恐怖は一種の悲しみであるとすれば、希望にはつねに悲しみが付きまとっていることになる。すなわち、「希望および恐怖の感情は悲しみを伴うことなしに存しえない」(第4部、定理47、証明)。

それにしても、喜びや悲しみとは何だろうか。スピノザはそれらを次のとおり定義している。「喜びとは人間がより小なる完全性からより大なる完全性へ移行することである」(第3部、諸感情の定義1。太字は原文では傍点)。さらに、「悲しみとは人間がより大なる完全性からより小なる完全性へ移行することである」(第3部、諸感情の定義2。太字は原文では傍点)。先に引用した『エチカ』第4部の序言の一節に言う「ある人がより小なる完全性からより大なる完全性へ移る、あるいは反対により大なる完全性からより小なる完全性へ移る」というのは喜びや悲しみのことだったのである。確認したとおり、スピノザにとって、ある人間がより完全であるとはより人間本性の型に近いということであり、より不完全であるとはより人間本性の型から遠いということであった。

先に見たとおり、スピノザにおいて、善悪は本性に基づいて判断される。したがって、スピノザにとっては、前述の定義からしても必然的に、喜びと悲しみはそれぞれ善悪と密接な関連をもつ感情ということになる。「善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない」(第4部、定理8)。また、「喜びは直接的には悪でなくて善である。これに反して悲しみは直接的に悪である」(第4部、定理41。太字は原文では傍点)。だから、悲しみをともなう希望はそれ自体では善ではありえない。

それゆえ、スピノザもまた、できるかぎり希望に依存しないで生きることを勧めているのである。すなわち、「だから我々が理性の導きに従って生活することにより多くつとめるにつれて我々は希望にあまり依存しないように、また恐怖から解放されるように、またできるだけ運命を支配し・我々の行動を理性の確実な指示に従って律するようにそれだけ多く務める」(第4部、定理47、備考)。

以上で、樋口師匠の言葉を僕がなんだかスピノザっぽいと感じた理由はおおむね示せたのではないかと思う。すなわち、両者の言っていることが厳密には違っているとしても、似ていると感じさせるだけの理由はおおむね示せたのではないかと思う。



さて、ここで興味深いのは、『四畳半神話体系』がパラレル・ワールドを扱った小説であるという点だ。この点で、『四畳半神話体系』の世界は決してスピノザ的ではなく、むしろライプニッツ的な発想に結びついているのである。それぞれの世界で、主人公はそれぞれに異なる生を送っている。彼が樋口師匠の弟子となるのは、そのうちのひとつの世界においてのことにすぎない。それでは、こうしたパラレル・ワールドの存在は、作中において、樋口師匠の思想を根本から覆してしまうものなのだろうか。

決してそうではない。まず注目するべきは、どの世界でも主人公はどうやら「いわゆる薔薇色の学生生活」などというものを満喫しているわけではなさそうだということである。それはやはり彼の本性に反するものだったということだろうか。「我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」のだという樋口師匠の主張は、まずはこの意味において、作中において正当なものとして受け取られるだろう。

だが、考えてみれば、樋口師匠の弟子である彼、その世界における彼は、どれだけ似ていようと、ほかのどの世界における彼でもない。だから、「今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない」という言葉は、もっと根本的なことを言っているものとして理解することもできる。もしかすると、この言葉には、ライプニッツ的な可能世界論とスピノザの必然論とのあいだでの、ひとつの妥協点を見ることができるのかもしれない。複数のパラレルな世界の、個別の必然というものがある。それゆえに、今ここにあるひとりの人物は、他の世界の同じ人物にさえ、なることができない。樋口師匠は、パラレル・ワールドを可能性としてではなしに捉える仕方を示唆している。それによれば、隣の世界はこの世界の別の可能性ではない。あるのはただ、それぞれの世界における必然でしかないのだ。

2018/4/10

2018年4月9日月曜日

●月曜日の一句〔岩田暁子〕相子智恵



相子智恵






桜鯛夕陽大きく沈みけり  岩田暁子

句集『陽のかけら』(朔出版 2017.9)所収

産卵期の桜色に染まった鯛の身の光の上に、桜の頃の潤いに満ちた大きな夕陽が、波にきらめきながら沈んでいく。二つの似た色の光が海の中と上で響き合い、滲みあっていく。

〈桜鯛〉も〈夕陽大きく沈みけり〉も、分解すればどちらも何ということはないようなきっぱりとした描き方だけれど、取り合わせによって何とも不思議な、詩的な味わいが生まれている。どこかなまめかしいような気分のある、美しい光が印象的な一句だ。

2018年4月8日日曜日

〔週末俳句〕中央区その他 西原天気

〔週末俳句〕
中央区その他

西原天気


築地本願寺から佃大橋を渡って月島へ。ここまでが某吟行句会に便乗させていただく。そこからが一人散歩。月島・佃島から勝鬨橋を渡って銀座方面へ。

花祭りです(本誌に敬愚さんの記事)。斜め向いちゃってるお釈迦様。



カリンの花。かわいい。


隅田川沿いの遊歩道。


生駒軒@月島。「生駒軒」は東京各所にある屋号。暖簾分けなのか?


例によって、散歩が楽しく、俳句は作らなくてオーケー(たまに数句つくればいい)。



午前中の初夏のような陽気から一転、日が落ちてからは寒い寒い土曜日でした。

2018年4月7日土曜日

◆週俳の記事募集

週俳の記事募集


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2018年4月4日水曜日

【お知らせ】週俳の本、紀伊國屋電子書籍版販売開始

【お知らせ】
週俳の本、紀伊國屋電子書籍版販売開始




2018年4月3日火曜日

〔ためしがき〕 恍惚 福田若之

〔ためしがき〕
恍惚

福田若之

恍惚――取り合わせがもたらすもののうちで、僕にとって最も貴重に感じられるものはこれだ。二つ以上の事物の出会いが、それだけで一種の恍惚をもたらす場合がある。

俳句の取り合わせがもたらす詩情は、一般的には、二つの事物のぶつかりあいの衝撃の強弱によると考えられている。ところが、恍惚はそうした衝撃の強弱とはほとんど相関性がない。衝撃の強弱は、おそらく、イメージ同士の観念的な隔たりの具合――いわゆる「つかずはなれず」といった類のそれ――によってたやすく説明することができるだろう。だが、恍惚についてはそうした距離感によってはほとんど説明することができない。

たとえば、《この秋は何で年よる雲に鳥》という芭蕉の句を読むときに僕を恍惚とさせるのは、「雲に鳥」という一言のうちでの、雲と鳥とのあっけらかんとした取り合わせなのである。「この秋は何で年よる」という感慨は、僕には、その恍惚に達するために架けられた梯子のようなものにすぎないのではないかとさえ感じられる。僕をこの恍惚まで引きあげたのはたしかにあの「この秋は何で年よる」という感慨であったはずなのに、気が付くと、僕はひたすら「雲に鳥」というこの二つのもののありきたりなはずの出会いに恍惚としているのだ。

もしかすると、恍惚は距離感の喪失そのものとかかわりがあるのかもしれない。恍惚が本質的に理不尽なものであると思われるのは、きっとこのことと無縁ではない。

2018/3/30

2018年4月2日月曜日

●月曜日の一句〔松永浮堂〕相子智恵



相子智恵






花の雲より一川の流れ来る  松永浮堂

句集『麗日』(角川文化振興財団 2017.10)所収

桜が一面に咲き連なる様子を雲に見立てた美しい季語〈花の雲〉。上流の川端には、川にせり出すようにして桜の花が一面に咲いていて、作者は下流から上流を眺めている。

写生句として印象的でありながら、〈花の雲〉という季語によって、夢の中の景色のようにも感じられた。雲の中から雨が降って水が生まれ、やがて一本の川になる……一読してそんな「雲」そのものにまで思いが至り、その印象が重なって一本の川がまるで〈花の雲〉の中で生まれたように感じられてきたのである。

花の雲の中で生まれたような一本の川。この川は優しく華やかな水を湛えながら、静かにこちらへと流れてくる。美しい一句である。

2018年4月1日日曜日

〔週末俳句〕おやすみベイビー 西原天気

〔週末俳句〕
おやすみベイビー

西原天気


関東地方は花吹雪の週末。全国的に(欧米的に?)四月馬鹿の日曜日。俳句世間的に三鬼忌の日曜日(http://hw02.blogspot.jp/2009/04/blog-post.html)。

花見をする人も、デモに行く人も、家でごろごろする人も、新年度のスタート。



クルマのなかで映画『ベイビー・ドライバー』のサントラをかけていたら、サム&デイヴの「When Something is Wrong with My Baby」が流れた。

グッナイト・ベイビーみたい」
「似てる。同パターンですね」
「あの歌、きっといつかは♪ の次の歌詞って何だっけ?」

思い出せないから、YouTubeで検索。

 きみのパパもわかってくれる♪

思い出した。

YouTubeに並んだ関連動画をたどるうち、プラターズが出てきたものだから「煙が目に染みる」を聴きたいということなって、いろいろなカヴァー、膨大な歌唱があるなか、何が一番好きだろう?と考えをめぐらす。で、とりあえずの結論は、アーサ・キット。