2024年4月17日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇21 浅沼璞



西鶴ざんまい 番外篇20
 
浅沼璞
 
 
開催前から話題の「大吉原展」(3/26~5/19 東京藝大美術館)を観てきました。

 
三都の遊里(嶋原・新町・吉原)のうち、西鶴と最も縁のうすい吉原とはいえ、17世紀後半の展示作品には、浮世草子を彷彿とさせるものが多く、興味が尽きませんでした。以下、大判300頁超えの大部な図録を参照しつつ綴ります。


まず目をひいたのが菱川師宣。『好色一代男』江戸・海賊版の挿絵を描いた師宣ですが、その『江戸雀』(1677年)は江戸で刊行された最古の地誌との由。見開きの挿絵「よしはら」では、あの「見返り美人図」の原型の如き太夫の道中姿(ほぼ四頭身)が、俯瞰的な構図で描かれていました。

 
つぎに目をひいたのが衣裳人形の「遊里通い」(大尽・中居・奴)です。衣裳人形とは、〈木彫胡粉仕上げの体躯に人間の着物と同様の布帛(ふはく)で衣服をつくって着せた人形で、なかでも同時代の遊里や芝居を主題としたものは「浮世人形」と称されて天和・貞享の頃(十七世紀後期)から技巧化がすすみ、大人が鑑賞愛玩する人形として発展した〉ものだそうです。
とりわけ大尽の若侍は、一代男・世之介を思わせる粋な優男の風情でした。

 
そして英一蝶「吉原風俗図巻」(1703年頃)。一蝶は江戸蕉門の俳諧師にして吉原の幇間でもあった浮世絵師。遊里でのトラブルから三宅島配流の刑に処せられ、その配流時代にかつての遊興を思い出して描いた肉筆画がこれで、師宣作品や「浮世人形」と同じく、17世紀後期の遊里のフレバーが漂います。

そんな一蝶(俳号は曉雲)の花の句を一句あげましょう。

 花に来てあはせはをりの盛かな   『其袋』(1690年)

さてラスト、時代は下りますが、花つながりで喜多川歌麿「吉原の花」(1793年頃)。「深川の雪」「品川の月」とあわせ、最大級の肉筆画として知られる三部作で、海外からの里帰り作品。思えば七年ほど前、箱根・岡田美術館で「深川の雪」「吉原の花」が138年ぶりに再会(?)という企画展があり、長蛇の列。数メートル離れた位置から時間制限内での鑑賞を経験した身としては、(一作のみとはいえ)至近距離で時間制限なく鑑賞でき、感無量という外ありませんでした。

2024年4月14日日曜日

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2024年4月12日金曜日

●金曜日の川柳〔まつりぺきん〕樋口由紀子



樋口由紀子





三億円事件みたいに咲く桜

まつりぺきん

まだかまだかと待っていた桜がやっと咲いた。桜は待っていればいずれは咲く。つぼみが膨らみはじめたり、ピンクになったりと、徐々に咲く準備に向かっていることはわかっていた。

しかし、「三億円事件」は違う。1968年に約三億円の現金が白バイ警官に扮した男に奪われた窃盗事件である。突然で、度肝を抜かれたことを思い出す。では、どこが「みたい」なのだろうか。咲くことは予想していても、満開の桜は美しく、この世のものとはおもえない。つまりはとてつもなく心が騒ぐからなのだろうか。はじめて浮かび上がった関係性である。「三億円」というモノではなく、「三億円事件」というコトを使ったのがいかにも川柳っぽい。

2024年4月8日月曜日

●月曜日の一句〔高橋睦郎〕相子智恵



相子智恵






花や鳥この世はものの美しく  高橋睦郎

句集『花や鳥』(2023.2 ふらんす堂)所収

句集の「序句」として置かれた一句である。ふと奥付を見れば、発行日は2024年2月4日となっていて、〈小鳥來よ伸びしろのある晩年に〉の句を同書に収める、七十余年俳句と付き合ってきた晩年の、その新しい春の始まりにこの句集を誕生させたのだな、と思った。もちろん偶然かもしれないが。

跋文に、〈芭蕉は敢へて俳諧の定義も、發句の定義も積極的にはしなかつたやうに思ふ。(中略)「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中【うち】にいひとむべし」も、用であつて體ではない〉と書く。掲句の「もの」は芭蕉の言葉を踏まえていよう。定義で固めて殺してしまわない、連続する「今の揺らぎ」の美しさ。そうすると、〈この世は〉の「は」もまた、この世に固めることはできないのではないか、と思われてきて、異界のこともまた、思われてくるのである。

花も鳥の声も、春爛漫の今日この日の現実であり、「花鳥」という詩歌や絵画の美意識の積み重ねられた物語でもあって、この世もあの世も、今も昔も、虚実も超えて俳句が存在することを寿ぐような一句である。

今、このパソコンを打っている私の耳には窓の外から、東京の鳥たちの声が聴こえていて、ぼんやりと遠くに花の雲が見えていて、ああこの一瞬も、「ものの美しく」なのだな、それは心の中でいくらでも自由に、虚実を超えて広がっていくのだな、と思った。

 

2024年4月5日金曜日

●金曜日の川柳〔瀧村小奈生〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



むかし、ビジネスマナーの実用書に「ふだんより1オクターヴ高い声で挨拶しましょう」とあって、そうすると元気に聞こえるというのだが、ちょっと、待て、1オクターヴがどれくらい高いか、わかってゆってるか? 声は確実に裏返るし、場合によっては、気がふれたと思われてしまうだろう。ま、ものの喩えなんでしょうけれど。 

わたしより半音高い雨の音  瀧村小奈生

これくらいがいいと思います。微妙に高いくらいが。

半音の聴き分けは、難しいには難しいですけどね。

掲句は、瀧村小奈生『留守にしております。』(2024年2月/左右社)より。